鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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「法元人筆意山水図」(個人蔵)〔図12〕の宋紫岩(?~1760)などは、いずれも中国・清の画家で、江戸時代に貿易商などとして日本を訪れた来舶清人と呼ばれる人々でもある。玉洲の収集した書画における同様の志向は、玉洲の菩提寺に伝来する「書画貼交屛風」(宗善寺蔵)に来舶清人の董可亭や沈草亭、朝鮮通信使の南玉や金有声(1725~?)〔図13〕、琉球使節の毛廷柱(1745~1801)の作例が含まれていることからもうかがえる(注11)。どうやら、玉洲は、日本と関連の深い中国人や朝鮮人の比較的良質な書画を、かなり積極的に集めていたようなのだ。これらの事例に加え、玉洲の絵画制作における中国絵画学習のあり方を顕著に示す点で最も意義深かったのは、杜垣筆「梅花書屋図扇面」(個人蔵)〔図14〕の発見であった。なぜなら、玉洲は、杜垣画を『桑氏扇譜考』に記し、かつ、杜垣画の一部を模写した「梅花書屋図」(個人蔵)〔図15〕という玉洲自身の作例も残していたからである。すなわち、杜垣画と玉洲画とを比較してみると、玉洲の模倣とアレンジの過程が、より明確となるわけで、たとえば、高士の姿や茅屋の形、梅樹の描写には杜垣画からの強い影響が見られるのだが、岩の描き方や水面の表現などには杜垣画の影響がほとんど感じられず、また、構図や全体の画面構成も、杜垣画の小さな画面から大観的な景観へ、かなり改変させていることがわかる。特に印象的なのは、杜垣画に描かれていなかった訪問者や童子を玉洲画の左下に描き加えている点で、これに関しては、やはり玉洲旧蔵書画の中に含まれる劉輝筆「牧童図」(個人蔵)〔図16〕からの影響も想定される(注12)。以上のように、玉洲は、自身が所蔵していた中国絵画の一部を模写・引用しつつ、それらを巧みに取捨選択して融合し、中国絵画の模倣にとどまらない、独自の作例を作り上げていったとみられるのである。かかる模倣とアレンジの拮抗は、すでに先の南海の事例でも、その萌芽を確認できたが、玉洲の場合、中国絵画からのアレンジの度合いが一層大きくなっていることを指摘しておこう。3.野呂介石の中国絵画学習介石の学画研究については、介石自身が池大雅(1723~76)に師事したこともあり、画譜類からの影響よりは、むしろ大雅の作例や、実見した中国絵画との関連性が、古くから指摘されてきた(注13)。そうした介石の中国絵画学習を示す最も著名な事例が、文化8年(1811)65歳のときに多武峯談山神社の千手院へ伝来していた黄公望筆「天池石壁図」(藤田美術館蔵)〔図17〕を模写したことと、公務で伊勢松坂を訪れた際に伊孚九筆「離合山水図」(個人蔵)を実見して感動し、以後、伊孚九に倣った― 48 ―

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