・ 「七社切」など、南北朝・室町時代の世尊寺家の人々の真跡に見られる太線による・ 上記の太線による連綿は、世尊寺家14代当主・行俊を伝称筆者とする「長門切」にも見出すことができる。「長門切」における伝称筆者・世尊寺行俊には、〈様式の指標〉としての性格が認められる。おわりに、「長門切」以外の、世尊寺家を伝称筆者とする古筆切について触れてお― 570 ―連綿を、当該期の同家において継承された書法の一端と指摘するものである。きたい。伝世尊寺行尹筆「時代不同歌合切」〔図11、12〕など、世尊寺家書法の一端と考えられる太線による連綿を看取できるものは多い(注34)。つまり、これらの古筆切における伝称筆者には、様式の指標としての性格が認められよう。一方で、歌人を伝称筆者とする古筆切には、こうした太線による連綿を見出せるものは少ないように思われる。では、それはいつから家の書法として確立したのであろうか。第1節で見たように、『入木抄』『尺素往来』がともに叙述の起点とする、鎌倉時代の行能あたりと思量されるが(注35)、残念ながら行能の仮名の真跡は確認できていない。そこで注目されるのが、伝世尊寺経朝筆「玉津切」である〔図13〕。田村悦子「蜻蛉日記絵の詞書断簡について」(『美術研究』241号、東京国立文化財研究所、1966年)により、天福元年(1233)、後堀河院(1212−34)を中心に催された絵合(注36)のために制作された「蜻蛉日記絵巻」の断簡と推定されるものである。この「玉津切」にも、意図したような太線による連綿を見出すことができる〔図14〕。経朝の養父である行能は、本絵合において物語絵巻の詞書書写を勤めた一人であり、田村氏は「玉津切」も行能筆である可能性を指摘している。改めて考慮されるべき見解である。課題としたい。世尊寺家は、その名声に比して、確かな遺例と判明しているものは、決して多くはない。「玉津切」の他にも、伝称筆者を冠したまま今に至り、検討の待たれているものもあるのではないか(注37)。本稿の提示は、それらを比定する手がかりとしても、有用であろう。ただし、太線となる連綿の上下の仮名の字母・字体(あるいは漢字)の傾向など、いっそうの精査を要する。今後は、鎌倉時代にまで視野を広げるとともに、より詳細な調査・分析に努めて、世尊寺家を軸に中世書道史の再検討に取り組んでいきたい。
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