鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 579 ―は外国人大使を闘牛に連れて行く担当者の手配をしていた。おそらくその件で須磨と懇意になり、後に須磨はルイス・ニエトの娘ホアキーナの結婚式に花嫁側の証人として参列するなど、家族ぐるみの付き合いをしていた。また須磨の依頼で一人の日本人を秘密裏に2ヵ月にわたって自宅にかくまったこともあるなど、須磨にとっては最も信頼できるスペイン人だったようである。須磨は戦後帰国する際に自らのコレクションの一部319点をスペイン外務省に寄託することになったが、その内の189点がルイス・ニエトに売却されている。このあたりの経緯についてはいまだ明らかにされていないのであるが、売却ではなく一時寄託であった可能性が高い。そしておそらくは須磨の意向、つまり信頼する人物に預けたいという考えが働いたのだろう。日本は敗戦国であったため、海外に居住する日本の要人たちは連合国によって所有物の没収を余儀なくされた。須磨コレクションも当然ながらその対象となった。実際に当時のスペインの外務大臣は須磨コレクション保有者とみなされていたルイス・ニエトを尋問したが、彼は美術作品が日本人のものというならばその証拠を見せるようにと反論し、体を張って須磨コレクションを守ったと伝えられている。また中立国であったスペインには連合国側も手を出せず、そのことを須磨はあらかじめ知っていたと思われる。つまりスペインの個人に預けることは、所有物を守る最も安全な方策の一つだったのである。この189点がいつどのように須磨の元に返還されたかというのは全く分かっていなかったのであるが、その一部を公開した展覧会が1956年に開かれているので、それ以前になんらかの方法で返還されたのであろう。スペインでは内戦後、文化財保護委員会が設けられ、自国の文化財の国外流出に対して厳しい措置が取られた。つまり須磨コレクションを日本に送り出すということは相当な困難を強いられたはずである。後年ルイス・ニエトは須磨への手紙の中で、作品を保管したことにより連合国側(Allied Commission)から厳しい目を向けられたらしく、そのことによって引き起こされた自らの辛苦を赤裸々に綴っている。最近になって、1947年12月から約3年間にわたって送付されたルイス・ニエトから須磨側への30通ほどの書簡が発見された。それらの多くはルイス・ニエトから須磨に対して郵送した小包について記述されている。その最初期、1948年1月5日に須磨の元部下・土屋に宛てたルイス・ニエトの手紙が大変興味深い。そこにはフランコ政権下における郵便物の検閲について記されている。以下、箇条書きではあるが、ルイス・ニエトが記した当時の国外への郵便物の条件及び注意事項を書き出してみる。

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