鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 582 ―おわりに須磨コレクションの返還歴の全容を解明するのは容易なことではない。ルイス・ニエトは亡くなる前に個人的な書簡や文書、また写真などを全て自ら処分している。そこには数十年にわたって送られてきた須磨からの書簡も含まれていただろう。須磨がルイス・ニエトの厚い友情にどのように応えていたのか、そして返還に関するどのような依頼を出していたのかは謎のままとなった。つまり須磨側に送られてきた資料からしか状況を読み解けないということになったのである。今回実際にマドリードのニエト家に赴いたが、須磨との関係を示す痕跡は、家に飾られた1点のお土産(日本製の人形)のみで、作品は全て須磨に返却されていた。そしてここまで論じてきた1947年12月からの3年間の返還歴についても、どの作品がいつ郵送されたのかについてははっきりと記述されていないため、把握することは不可能である。また、スペインにおいて海外への美術作品流出が固く禁止されていた時代に須磨がどのようにスペインから作品を持ち出していたのかを記録として残すことは非常に危険な行為であったろう。これまであまり知られていなかったが、須磨は1957年春にスペインに再び赴いている。それはA級戦犯となって慌てて帰国の途に就いた1946年以来のことであった。その際には画家のマヌエル・ベネディートをはじめとする芸術関係者70人ほどが空港で須磨を出迎え、その後レストランで歓迎会を開いたそうである(注7)。須磨が何を目的に渡西し、そしてその際どのような活動をしたのかは全く不明であるが、おそらくこの時にも須磨は自らのコレクションの一部を持ち帰ったことであろう。作品の返還に関してはまだまだ未読の資料が大量に残されている。最近になってソフィア王妃芸術センター、セラルボ美術館、ロマン派美術館より大量の書簡及び資料類が長崎県美術館に提供された。その多くが1960年代のスペイン政府による須磨コレクション21点の強制買い上げに関することである。これらを読み解いていくことで、須磨コレクション返還の歴史がさらに明らかになっていくことであろう。またその他にも須磨家より新資料が外交史料館に寄贈され、そこではマドリードの美術館に寄託された130点の作品返還に関する交渉が、日本の外務省や在スペイン日本大使館を巻き込んで、1954年より始まっていたことが新たに分かった(注8)。その中の21点がスペイン政府により強制買い上げと決定されたのが1964年なので、実に10年にもわたる粘り強い交渉が続けられていたということである。須磨の衆議院議員時代(1953−1958年)の秘書によると、須磨の部屋には頻繁にスペインから電話がかかっていたそうである。その頃の仕事はすでにスペインとは無関係になっていること

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