の比較的新しい時代の中国文人を款記に多く挙げていることがわかる。かかる背景には、当時の日本の漢詩文壇における流行が反映されているのであろうが、と同時に、元から清の書画や詩文がさらに多く日本にもたらされ、それらに接触する機会が増えたこととも無関係ではあるまい。ならば、介石が倪瓚や黄公望に倣った作例を多く描いている点については、あるいは別の見方が可能かもしれない。たとえば、中国・清の王時敏(1592~1680)や王原祁(1642~1715)といった画家の作例には、「倣倪瓚」や「倣黄公望」と記したものが多く、介石も、こうした作例をまねて、倪瓚や黄公望に倣うことを画中で表明したとも解釈できる。介石が中国人画家に倣ったという作例の中には、倣った画家の画風をあまり感じさせないものも確認できるのだが、それらは、同様の款記がある清の作例を参考にしたのではなかろうか(注17)。介石が王時敏や王原祁に倣ったという作例は、現状では知られていないが、たとえば、大坂で活躍した岡田米山人(1744~1820)は、山水図の鋭角的な岩の描写に、王時敏や王原祁の用いたY字形の独特な皴を用いており、その影響がうかがえる。今後の検討を待ちたい。ともあれ、介石における中国絵画学習の状況を、黄公望や伊孚九の原図との比較で見てみると、介石は丁寧に図様を模写するのだが、その表現や皴法には温和な介石らしい筆致や面的な処理がおこなわれ、全体に明るく穏やかな介石風の描写へと置き換えられる傾向にあるようだ。同様のことは、張瑞図画や季灝画との比較からもうかがわれ、中国絵画から学んだ表現をかなり咀嚼し、モチーフや描法という細かいレベルまで解体したうえで、自らの作品の中で再構築していくようにも見える。こうした咀嚼と再構築のあり方は、玉洲の「那智山・熊野橋柱巌図屛風」にも指摘できるのだが(注18)、介石の場合、玉洲のように大胆なアレンジではなく、むしろ中国・清の絵画表現と類似する方向性を帯びた点が興味深い。その意味で、介石は、清の絵画からの学習を通して、中国絵画の歴史と表現を、かなり深く理解していたのかもしれない。おわりに以上、わずかな事例から類推した点が多いものの、⑴南海、⑵玉洲、⑶介石における中国絵画学習の様相を見ると、⑴南海は、接触できた中国画が限られたようだが、基本的にかなり忠実に原図を模写し、アレンジの度合いは少なく、⑵玉洲は、日本と関連の深い来舶画人などの明清画を積極的に収集し、部分的な模写を組み合わせて、全体としては大幅なアレンジを加え、⑶介石は、元から清のかなり多様な詩や画に触れ、それらを図様や描法のレベルまで解体して咀嚼したうえで、介石らしい平明な表― 50 ―
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