いられたからである。改宗したフィリピン最初の画家は、コロニアル・マニラで活動した中国人移民のひとりで、16世紀にイエズス会やドメニコ会司祭から手ほどきを受けて教会堂を装飾し、教理文書に挿絵を描いた。細部の造形に中国的起源が指摘されているものの、用いられた図柄は、ヨーロッパ伝来の版画などから翻案されたものだと考えられる。様式面では、マニラの南にあるボホール島を拠点とした「イエズス会ボホール派」としての特徴に基づきながら、拡張し変化していった。物質面では、天井に施された石、木、錫、泥、帆布に、卵白や牛の血などを混ぜた、水と膠からなる地元のテンペラ技法が用いられ、樹液や葉、根、蕾などが混入されることもあった。板絵や彩色彫像では、木、金属、ガラスなどの基底材に、地元の絵具や、辰砂などの輸入顔料が、中国の筆を使って施された。マスティックなどの樹脂抽出物や、精製したココナツ油が用いられたり、白砂や地元産チーズが練り混ぜられたりした。フィリピン・コロニアル絵画の最初の契機を改宗だったとするなら、第二の契機は、広義の改宗でもある対抗的転用として性格付けることができ、ここでコロニアル・イメージが潜在的ポスト・コロニアル・イメージへと転換される。その例として、エステバン・ヴィリャヌエヴァの《現地酒「バシ」をめぐる反乱》をとりあげる。これは、スペイン人統治者が現地酒に課した規制に対して、イロコス島北部で起こった反乱を物語った作品である。実際の出来事は各地で同時発生的に起こったのであるが、芸術家は、事件の舞台であるタブローを順次つなげ、画中に文字テキストを含めることで、シリーズを連続的なものとし、民族史的で、教育的な表現とした。人間と風景を融合し、両者の歴史的関係を考察させるような絵画は、1821年にアジア初の素描学校、アカデミア・デ・ディブホの設立において、より大規模に実現された。絵画の枠組みは、作品自体を超えて、一定の視覚的文法へとわれわれを導き、宗教的改宗を促すようにパターン化されたテンプレートへと、われわれをいざなう。また雲や彗星など、特定のイコノグラフィーに導くような視覚的コードも用いられた。 《現地酒バシをめぐる反乱》シリーズは、歴史的イメージや物語のアレゴリカルな生産が可能になった変遷の地平を示している。このアレゴリカルな衝動は、19世紀になって、1884年にマドリードの展覧会で金賞を受賞したフアン・ルナの《スポラリウム(略奪)》に連なる。ここに我々は、改宗と再改宗、支配と混血、模倣と親密という二元性を超えた第三の契機の痕跡を見る。コロニアル絵画は、このようなプロセスの連続を経て変遷したのである。― 596 ―
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