注⑴ジェームス・ケーヒル「彭城百川の絵画様式㈠~㈢」(『美術史』93~96・105・107、美術史学現に置き換えて再構築するという、それぞれの特徴を指摘できただろう。このような三者の特徴は、日本の文人画における初期(18世紀前半)、中期(18世紀後半)、後期(19世紀)の状況と重複する点で興味深い。すなわち、日本の文人画家が接触できた中国絵画の質や量は、時代を経るにつれて向上したのだが、表現の独自性は中期に最も大きくなり、後期には中国絵画の表現を多様な作例に拠りながら細分化して理解し、再構築したがゆえに、むしろ中国の正統的な文人画の表現へと近づくという傾向を帯びたわけで、紀州の文人画壇は、そうした時代性とも密接に関係しているのである(注19)。一方、かかる時代性の反映に比して、紀州という地域性については、残された課題も多い。本州最南端に位置する紀州は、海上交通の要所で、海上輸送が中心の江戸時代、京都や長崎から江戸へと運ばれる文物は、全て紀州に面した海上を通過した。その結果、紀州には、さまざまな経緯で中国絵画がもたらされたと想定される。実際、長沢芦雪(1754~99)が訪れた田辺の高山寺では、近年の調査で、王諤筆「寿老人図」、伝沈南蘋筆「虎渓三笑図」、「芦雁図」、伝呂紀筆「花鳥図」、伝唐寅筆「花鳥図」などの伝来が確認され、特に、中国・明の作とみられる「芦雁図」は、芦雪来訪時にすでに同寺にあったことから、芦雪の中国絵画学習との関連で注目される(注20)。このほか、紀州徳川家にも多くの中国絵画が所蔵されていたし(注21)、また、近年、和歌山県内の寺院からは、洪武三年(1370)の年紀がある徐賁(1335~93)筆「雲谷山図巻」や、戴進(1388~1462)筆「雪塢漁沽図」、何起龍筆「仕女図」などが発見された。今後は、それらへの検討が必須だが、ともあれ、現段階では、本研究で挙げたいくつかの事例が、紀州という地域性を越えて、広く江戸時代絵画における中国絵画受容を考える際の、一つの指標となることを期待したい。会、1976・78・79年)を参照。⑵『祇園南海』(和歌山県立博物館、1986年)、武田光一「中国画譜と日本南画の関係」(『近世日本絵画と画譜・絵手本展〈Ⅱ〉─名画を生んだ版画─』、町田市立国際版画美術館、1990年)、『祇園南海とその時代』(和歌山市立博物館、2011年)などを参照。⑶『文人墨客─きのくにをめぐる─』(和歌山県立博物館、2007年)10~17・19・74~76頁、安永拓世「祇園南海の新出画─「峰下鹿群図」と「美人石上読書図」の史的位置─」(『和歌山県立博物館研究紀要』14、和歌山県立博物館、2008年)などを参照。⑷前掲注⑶を参照。⑸財津永次『手紙』(『日本の美術』82、至文堂、1973年)8~9頁、山内長三「祇園南海と豪商― 51 ―
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