■Frank FELTENS“Traversing Material Boundings-Ogata Korin’s Paintings in Ink and Iron Oxide”邦題「光琳の墨絵と銹絵の関係について」発表者は、聖衆来迎寺六道絵の四苦図像の起源が、「絵因果経」、仏伝図、法華経絵、中世説話、臨終行儀、様々な仏教絵画の中に存在することを指摘した。また、聖衆来迎寺本四苦幅には、モチーフ自体に独自の流れと使い方があり、以上をもって、『往生要集』に基づいているものではないと論じた。聖衆来迎寺六道絵の地獄幅の場合、忠実に『往生要集』に基づいて描かれていると思われるが、四苦をはじめ本作品に出てくるモチーフでは、『往生要集』に一致しない部分が多く、これらを明らかにしていくことで、聖衆来迎寺六道絵すべてについて、より踏み込んだ理解が可能になるのではないかと考えた。尾形光琳(1658-1716)といえば、根津美術館両蔵「燕子花図屏風」、「秋草図屏風」などに見られるように、華麗な彩色画家としてあまりにも有名だ。しかし、光琳が1690年代に絵師として芸術の世界に足を踏み入れたのは、水墨画家からだったということはあまり注目を浴びていない。本発表は、光琳の最初の墨で描いた作品の様式、マチエール、さらに17世紀の色感覚を検討しながら、水墨画家としての光琳の軌跡を軸に読み解いていく。紙本や絹本に墨といった一般的な墨絵のみならず、多様な媒体における光琳の墨絵活動についての考察を深めたいと思う。例えば、弟の乾山と同作の陶器に描かれた銹絵がその一つである。山根有三氏によると、光琳・乾山兄弟の共同制作は1709年から始まっている。そのとき光琳が銹絵に使った様式は1690年代に製作した墨絵に近く、初期に学んだ墨絵技術を意識して用いたと考えられる。1690年代は、光琳の経済的活動が最も厳しかった時期である。1687年に他界した父宗謙から受け継いた遺産の大部分が大名貸しであり、その殆どは返却が期待できないものであったし、光琳の金に頓着しない性格も、状況を逼迫させた。加えて、光琳が1690年代の間に多額の借金をつくり、また融資もしていたため、立ち行かない状況に陥ってしまった。こうした状況を打破するため、光琳は筆を取り、幸いなことにパトロンの受注もあったため、美術製作を生活の基本にしようとしたのがまさにこの時代であった。理想的なlʼart pour lʼartの決定よりも経済的な理由で絵師になったと考えられる。現在では絢爛豪華な作風の印象が強い光琳が、最初に墨という絵具を選択したのはこうした厳しい経済状態からのスタートだったためであろう。墨は書、つまり手紙や― 606 ―
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