⑥1930年代日本における展示デザインの意識と実践― 56 ―研 究 者:早稲田大学 日本学術振興会特別研究員(PD) 江 口 みなみ展覧会のテーマに合わせて、会場を設計し統一的な意匠を施す「展示デザイン」という取り組みは、日本では1930年代前半から始まった。デザイナー原弘や建築家山脇巌ら日本のモダニストが、ドイツ工作連盟やバウハウスといったドイツのモダニストによる先例から刺激を受けながら、銀座紀伊國屋ギャラリー等の小規模な展示空間において展示デザインを試み始めたのである。なかでも、バウハウス留学から帰国後の山脇は、妻道子の織物展(1933年5月)における展示デザインの実践を経て、ニューヨーク万博(1939年及び1940年)の国際館日本部を総合的に構成する大役を果たした。その契機として、彼が1931年にベルリンで開催された「ドイツ建築博覧会」(Deutsche Bauausstellung、以下「ドイツ建築博」とする)を訪れ、会場の展示デザインに圧倒された経験があったことは、これまでも指摘されてきた(注1)。しかし、山脇と共に同展を取材し、展示デザインの実例を日本に伝えた建築家蔵田周忠(1895-1966)の果たした役割については、未だ検討されていない(注2)。本論文では、西欧における展示デザインの動向にいち早く注目し、その重要性をテクストと実践の両面から訴えかけた蔵田の取り組みに光を当てる。1930年代、展示デザインという新しい表現メディアは、万博という国際的な舞台を得たこともあって、日本で飛躍的に存在感を増し、戦中から戦後まで発展を続けたが、蔵田の意識的な働きがなければ、この潮流は生まれ得なかっただろう。1.渡欧以前の展示との関わり蔵田が展示に関わった初期の事例は、1922年開催の平和記念東京博覧会の会場設計であった(注3)。同博覧会の技術員および分離派建築会の一員として総合設計に参加し、表現主義建築に統一された会場を作りあげたことは、蔵田にとって展示の知識と経験を培う好機であったと推察される。また、1925年9月開催の「仏蘭西現代美術展覧会」(日本美術協会)において「広告塔」〔図1〕の制作を手がけたことで、小規模ながら、建築家として美術展に関わり、会場と展示作品を結びつける役割を果たした(注4)。その他の事例としては、1928年開催の大礼記念国産振興東京博覧会における個人特設館「佐久間建材工業所」〔図2〕の設計がある(注5)。すでに蔵田は、建築物とタイポグラフィを組み合わせる手法や、回転式の円形看板を設置し「動き」─蔵田周忠のドイツ滞在を中心に─
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