鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 57 ―の要素を取り入れることを試みていた(注6)。さらに、批評活動初期のテクストにも、展示空間にデザイン的な視点を持ち込もうとする意識を見て取ることができる。例えば、開館したばかりの東京府美術館で開催された「日本工藝美術会展」(1926年10月)の展評では、展示室の意匠と展示作品に統一感を持たせるため、建築家と工芸家の協働を提案している。 静かな一室を見て次の室に移らうとする時に、出入口の上を見ると、壁の隅に、冷房装置のための鉄板の管と、換気のための穴に張つた鉄の打抜き網が見えた。管の鉄板は凸凹して、陳列室とは何の干渉もなく、この館として仮設物ででもあるやうに、室の隅に掛つてゐた。網はただ鉄板から幾何学模様が打抜いてあるだけのもので、陳列柵及至はその中の制作品とは全く別な世界を示してゐた。 これは建築家ばかりに委せて置くべき仕事ではない。工芸家の伸ばさるべき手の領分ではあるまいか。(注7)このように蔵田は、渡欧以前から展示に対する鋭いまなざしを持ち、作品と展示空間の融合に関心を示していた。そして1930年3月から翌年6月までの滞欧時には、展示デザインの実例を精力的に採集していった。2.滞欧時の展示デザイン調査と報告2.1 ドイツにおける展示デザインの最盛期蔵田の足跡は、『国際建築』誌の記事や帰国後の著書『欧州都市の近代相』(六文館、1932年)で確認することができる(注8)。すでに1920年代後半から、ドイツ工作連盟やバウハウスの作家は博覧会の特設館に統一的なデザインを施す仕事を開始していたが(注9)、ちょうど蔵田の滞欧時はその最盛期であったと言える。例えば蔵田は、リシツキーが展示デザインを手がけたドレスデンの国際衛生博覧会(1930年5月〜10月、〔図3〕)およびライプツィヒの国際毛皮博覧会(通称IPA、同年5月〜9月)を訪問することができた(注10)。次の衛生博に対する批評からは、蔵田の感嘆ぶりがうかがえる。 一々に就て書いてゐるときりがないから止めるが、こゝでも強く印象に残つたことは、陳列及び表示に関する新らしい造型及の応用のうまさである。―写真と、地図や図表とそれに模型を加へての陳列法は、表示手段の素材としては別に従来

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