2.2 ドイツ建築博の取材蔵田は『国際建築』「博物館号」への投稿後、休む間もなくドイツ建築博の取材へと動いた。山脇巌とは1930年11月17日に初めて顔を合わせ(注15)、同誌1931年2月号では同博覧会の5月開会を告知した(注16)。蔵田は工事中から会場に通って取材し、6月19日の帰国後、東京で「独逸建築博覧会号」(1931年7月)の原稿を仕上げた。― 58 ―と変りがないのであるにも関らず、全然在来の所謂博覧会とは異なつた、一歩進んだ陳列室を現出してゐる。(注11)さらにリシツキーによる展示について、ちょうど隣り合っていた日本の展示を「文字通り無味乾燥」と批判した上で、次のように評した。 ロシヤの室は併し盛んなものだ。ドイツの整然たる技法に比べれば少し雑然としてゐる位造型的にあばれ000てゐる。図は壁面の一部であるが、室の中央には黒い鉄板で人形を作つたり強い曲線の壺や壁仕切を建てたり、天井にはポスターを貼つたり、ネオンを使つたり、ベニヤ板、コルク板、凡そ造型に役立つ新材料を、手当り次第使つてゐるやうな自由さは、寧ろ痛快である。(注12)このように蔵田は、写真と広告、そして建築の技術を融合させてひとつの空間に仕上げる展示デザインに、新しい表現可能性を感じとっていた。また『国際建築』の「特集・博物館号」(1931年1月)には、「ドイツの博物館所々」という記事を寄せた(注13)。とりわけ、構成主義の表現を展示に導入することや、そのための技術家養成の必要性を説いている点は注目すべきである。 (博物館の陳列における)清潔で、立体的で、線の太い明快な調子はたしかに新らしい造型美術の開拓した世界である。私はこういふ世界を組立てるために特殊な教育を受けた技術家が今後は入用になることを痛感した。例へば図表や統計表を単に事務的に描くのではなしに、それを人に解明するための造型的技術。─こゝに究極的な構成派の芸術がある。(中略) これ等は単なる芸術家でなしに、建築家的訓練を受けた理解の正しい技術家の新らしい働き場所として十分に力を入れる余地を示してゐるものと解することが出来る。(注14)
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