鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 59 ―つまり、同特集の完成までには約半年かかっており、蔵田の欧州滞在における最重要課題であったと言えるだろう。ドイツ建築博(1931年5月〜8月)は8部で構成されており、三つの巨大な展示場がエスカレーターと地下道で結ばれていたほど大規模なものであった(注17)。このうち「現代の住宅」部門を山脇が担当し、国別の出品展示室が並ぶ国際部門や建築材料部門などを蔵田が概観した。蔵田の記事「会場一巡記」では、冒頭に「この博覧会は建物よりも、その各室の陳列法、表示法の工夫と努力とに、新らしい造型的な立場から大いに見るべきものがあるといふことを全般を通じて最初に注意したい」(注18)と強調してある。なぜなら、会場では各国が競うようにモダニズムの展示デザインを展開し、さらにグロピウスやモホイ=ナジ、バイヤーらが各所で展示手法を惜しげもなく披露していたからである(注19)。バウハウスに在学中の山脇にとっては、既に同校を去ったマイスターの最新動向を知ることができる好機であったし、強い競争心が呼び起こされる体験でもあった(注20)。蔵田は、グロピウスらによる「ドイツ建築労働組合」の展示〔図4〕を半ば興奮気味に解説しながら、「但しどこまでもこの一廊が展覧法の芸術的発展である事では、建築家よりも商業美術家に見せたいものである」(注21)と同文を締めくくった。欧州滞在を通して蔵田の意識は、ドイツでダイナミックに展開する展示デザインの重要性を日本へ知らせることに留まらず、実際に日本で「展示」の再認識を迫り、展示デザインの実践を促進することへと収斂していったのである。3.帰国後の展示デザイン専門家の養成を待つまでもなく、蔵田は帰国後自ら展示デザインの実践に取りかかった。まず、1932年3月から上野で開催された「第四回発明博覧会」において「エヂソン館」の設計を担当した(注22)。蔵田は窓のない空間を用意し、ネオン管や写真パネル、タイポグラフィを組み合わせた展示デザイン〔図5〕を披露したが、湾曲した壁面や人物写真を切り抜いたパネルなどは、リシツキーの展示手法を思わせる。これは「建築の内外及陳列をも統一した形態にまとめる試み」であり、日本の保守的な博覧会に対する「アジテーション」の意味が込められていた(注23)。さらに1932年5月には、ドイツ建築博の一部が巡回し「新興独逸建築工芸展」(上野松坂屋)として開催された(注24)。蔵田は同展委員の幹事を務め、展示も担当した。建築写真155枚に加えて、建築材料、家具、美術参考品等が展示されたが、写真を帯状に並べて一つの構成物にしている点〔図6〕や、大型写真と家具を組み合わせ

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