注⑴川畑直道「写真壁画の時代 パリ万国博とニューヨーク万国博国際館日本部を中心に」五十殿利― 60 ―たモデルルームなどに展示の工夫が見られる。また、翌1933年3月の「欧州新建築展」(東京朝日新聞展覧会場)では、帰国した山脇も加わって家具やスケッチ、写真等を総合的に見せる展示を試みた(注25)。同展については情報が少ないが、注目すべきことに、批評家の板垣鷹穂は同展について「陳列の形式から、また内容から云つても詰らなかった」と一蹴し、「羊頭狗肉展覧会」とさえ呼んだ(注26)。たしかに同展に限らず、蔵田による展示デザインは新しい技術や材料を用いて挑戦的な姿勢を見せてはいるが、のちに山脇や原弘が見せたような洗練さを感じさせない(注27)。やはり蔵田の実践は、西欧仕込みの模範的な展示デザインというよりも、日本における展示の変革を呼びかける「アジテーション」の役割を担ったというべきものである。蔵田から刺激を受けて山脇や原が開始した実験的な展示デザインは、戦時期に国家事業と結びつき、万博での国家表象を担う一大事業へと発展していった(注28)。結語海外動向に敏感であったはずの日本のモダニストが、1920年代から展開していた西欧の展示デザインに注意を向けたのは、ようやく1931年になってからであった。彼らに展示デザインを実見する機会が欠けていたことが、その決定的な理由であった(注29)。リシツキーによるロシア構成主義の展示デザインと、モホイ=ナジらによるバウハウスで生まれた展示デザインの両方を実際に体験したのは、日本のモダニストでは蔵田だけであった。渡欧前から展示に鋭いまなざしを向けていた蔵田は、ドイツから日本へ迅速かつ委曲を尽くして展示デザインの台頭を伝えた。さらに帰国後すぐに実践し具体化したことによって、展示デザインの実態やその効果が認められ、日本でも「展示」の変革の烽火が上がったのである。治編『「帝国」と美術 1930年代日本の対外美術戦略』国書刊行会、2010年、379−578頁。⑵たとえば矢木敦は、蔵田が『国際建築』誌を通じてドイツ建築博を日本に紹介したことの重要性を強調したが、その対象は海外建築雑誌との活発な交流に対する寄与と、海外建築情報の速報性に限られている。矢木敦「蔵田周忠 日本モダニズムの『水先案内人』」『建築文化』55巻639号、2000年1月、124−127頁。⑶平和博の公式事務報告(『平和記念東京博覧会事務報告 下巻』東京府庁、1924年、592頁)では、蔵田(当時:濱岡周忠)の工営課任命は1921年3月31日、退職は1922年3月30日となっている。⑷蔵田による広告塔の図版は、雑誌『アトリヱ』(2巻10号、1925年10月、4頁)に掲載された
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