鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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⑽ 1928年のプレッサ展に続き、リシツキーは曲面や大型パネル、引き延ばした写真を多用した展示空間を造り出した。リシツキーによる両博覧会の展示デザインについて、詳しくは次を参照。Kai-Uwe Hemken, El Lissitzky: Revolution und Avantgarde, Köln: Du Mont, 1990, pp. 151−160.⑾ 蔵田周忠『欧州都市の近代相』、六文館、1932年、178頁。⑿ 同上、179−180頁。⒀ 蔵田周忠「ドイツの博物館所々」『国際建築』特集・博物館号、7巻1号、1931年1月、42−47頁。⒁ 括弧内は筆者による。『国際建築』7巻1号、同上、44−45頁。⒂ 「今日夕方後記を投函してから後山脇氏に会ってしばらく話した。」1930年11月17日付「同人後記」『国際建築』7巻1号、前掲注⒀、60頁。また山脇は蔵田との出会いを次のように述懐した。「自分がバウハウスの研究室に入りびたりだった時代のある日デッサウの下宿で未知の蔵田氏からはじめて手紙をもらった。『私はいまベルリンに来ている。小山正和氏の国際建築協会から1931年ドイツ建築博の特集を依頼された。ぜひ二人で現地でこの面白い仕事をしたい。』約束の日、ベルリンの西のビクトリア・ルイゼ・プラツツの小さいコンデイトライの片隅が思い出の初対面だった。広い会場を毎日引きづられながら、彼は公共建築を自分は現代住宅を受けもち、自分のあやしげなカメラとペンとで、昭和六年の国際建築第七巻・第七号を約束通り立派に仕上げた。」山脇巖「蔵田周忠氏との出会い」(1966年4月)『欅 続』日本大学芸術学部美術学科研究室、1973年、65−66頁。⒄ Amtlicher Katalog u. Führer, Deutsche Bauausstellung Berlin 1931, Ausstellungs-, Messe-, und ⑸ 「PL.93 大礼記念国産振興東京博覧会 13. 佐久間建材工業所特設館 設計 蔵田周忠氏」『国際建築』4巻5号、1928年、12頁。⑹ 記録写真によって特設館上部や前面に付された「マルエス」の円型看板の図柄が異なっていることから、回転式の装置であったことが推察される。西島染之助編『国産振興東京博覧会出品大観:大礼記念』大礼記念国産振興東京博覧会出品大観刊行会、1928年5月、299頁および濱田増治「日本最近博覧会に現はれたる小特設館類例」『現代商業美術全集 11 出品陳列装飾集』アルス、1929年、14頁。なお、後者図版に付されたキャプションの「1928年日本平和記念博」は誤りである。⑺ 蔵田周忠「工藝展を観て考へる」『工藝時代』創刊号、1926年12月、再録:蔵田周忠『近代的⑻ このほかに、蔵田が滞欧時に撮影した写真や16ミリフィルムの映像も残されている。岡山理香によれば、東京都市大学所蔵の同映像資料は現在映像分析が進められている。岡山理香「近代建築思潮の形成における蔵田周忠の役割について(1)─蔵田文庫所蔵未発表動画資料の分析とともに」『共通教育センター紀要』東京都市大学共通教育部、2013年、1−9頁。⑼ ドイツを中心とした展示デザインの誕生と展開について、詳しくは次を参照。Charlotte Klonk, Spaces of Experience: Art Gallery Interiors from 1800 to 2000, New Haven and London: Yale University Press, 2009.⒃ 蔵田周忠「海外消息1931年独逸建築博覧会」『国際建築』7巻2号、1931年2月、24−25頁。当初「独逸建築博覧会号」は5月号での特集となる予定であったが、会場撮影の許可が遅れたため7月号に延期された。「同人後記」『国際建築』7巻6号、1931年6月、21−22頁。― 61 ―ほか、濱田増治編の『現代商業美術全集10 売出し街頭装飾集』(アルス、1928年、62頁)にも「日本現代の街頭装飾の優秀なる範例」として挙げられた。いずれも山口(岡本)蚊象による「入場門」の図版と共に紹介されている。角度』信友堂書店、1933年、138頁。

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