2.伝記と新出資料― 67 ―『琳派』(紫紅社、1989−92年刊)には26点が紹介されている。孤邨の作品は、確かに琳派風の草花や花鳥を画題とするものが多い。しかし「隅田川遠望図」(江戸東京博物館蔵)のように水墨を基調とした実景図もある。「晩年画風稍々改リテ明画ノ風ヲ筆作ス」、「性雅趣アリテ世に一奇人ト稱セラル」(注1)と評されたことからも、幅広い画風をもっていたのだろう。中国絵画の影響に関しては、小野恵氏が「池田孤邨筆 百合図屏風」(『國華』第1306号、2004年)において、「百合図屏風」(遠山記念館蔵)での花の表現が蕾から散るまでの様々な表情を捉えていること、『光琳新撰百図』、『抱一上人真蹟鏡』の序文にて、中国画を好み、中国画の精神性を高く評価すると明記したことを挙げて、中国花卉画や写生画、本草学の複合的な影響を示唆している。今回は、「藤図屏風」(福岡市美術館蔵)に注目し、その描写を考察したい。まず、改めて孤邨の伝記について整理する。人名録(注2)、画家叢伝(注3)、番付表(注4)、墓碑(注5)等によれば、名は三信、三辰、字は周二、通称は周次郎。号は自然庵、蓮菴、冬樹街士、画戰軒、煉心窟、天狗堂、舊松軒、久松軒などである。享和元年(1801)、孤邨は越後国水原で池田藤蔵の子として生まれ、若くして江戸に出て抱一に師事したとされる。孤邨が抱一に師事するきっかけとして、亀田鵬斎(1752−1826)など水原を来訪した文化人が関わった可能性が指摘されている(注6)が、筆者は九皐庵九甲という人物が重要と考える。九皐庵九甲は、孤邨の弟子である野沢堤雨(1837−1917)の父であり、伊藤櫟堂(1886−1945)によれば、越後の人で、壮年の頃、江戸へ上って抱一の学僕となり俳号を九皐庵九甲としたという(注7)。櫟堂は、九甲が抱一に初鰹を送った際、「卯月八日九皐のもとより堅魚を送りければ一番に釈迦へ見せけり初かつを 屠龍」と書かれた短冊を貰ったエピソードとともに、その後、同郷の孤邨が彼を頼って抱一門人となり、さらに九甲の息子であった久太郎(堤雨)が孤邨に弟子入りをしたと述べる。抱一の句集『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)には、文化13年(1816)、抱一56歳の時に「四月八日初松魚を九皐のもとより送ける時 一番に釈迦へ見せけり初かつほ」と確かに記述があり、九甲が孤邨と抱一の関係を直接的にとりもった可能性が十分に考えられる。孤邨は終生、水原と交流を持ったとされ、慶應2年(1866)2月13日に69歳で没している。資料から、天保7年(1836)頃には深川冬木町に、安政4年(1857)頃には日本橋濱町に、安政6年(1859)頃には、両国久松町に住んでいた。特に「煉心窟」「舊松軒」
元のページ ../index.html#77