鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 68 ―の号は少なくとも安政6年以降、59歳以降には使用されていたと考えられる。また、孤邨の印章の多くは市島謙吉(春城)(1860−1944)によって収蔵されたようで、その一部(注8)が紹介されている。側款から「茶画弎昧葊主」(朱文長方印)の印は嘉永3年(1850)、「煉心窟」(白文方印)と「舊松道人」(朱文方印)の印は対印で元治元年(1864)の制作であることがわかり、作品の制作年代に反映できるものである。ここで、孤邨が28歳頃に制作したと考えられる新たな資料を紹介したい。社中での括りなのか、6つにわけられた枠に75人による俳句と、その背景に孤邨による八重桜の絵が摺られた俳諧摺物(個人蔵)〔図1〕である(注9)。俳句の作者には酒井抱一、桜井蕉雨(1775−1829)、小沢何丸(1761−1837)、成田蒼虬(1761−1842)、宮沢雲山(1781−1852)、今枝夢梅(1803−52)、守村抱儀(1805-62)らの名前が見える。詳細はわからないが、版下絵を描いた孤邨と、そして最後に俳句を寄せている抱儀が中心となって制作されたと推測される。孤邨と抱儀がそれぞれいつ抱一門へ入ったのか、時期は定かではないが、二人はほぼ同世代であり、『軽挙館句藻』の文政6年(1823)の項(注10)に抱儀の名が見られることや、抱儀が援助した何丸の編による『俳諧男草紙』(文政5年・1822刊)に挙げられる共通の俳人の存在からも、文政年間に制作されたことは間違いない。特に、抱一の俳句「歸らうか行かうか土手のゆふ蛙」が、『軽挙館句藻』の文政11年(1828)の春、「吉原風流」の項にあり、またその年の秋に抱一は没している(注11)ことから、制作時期は文政11年とするのが妥当であろう。摺物ではあるが孤邨の落款があり、書風から作品の制作時期を考察できるとともに、孤邨、抱一、抱儀の俳句を通した交友関係を示す資料である。孤邨自身が俳句を詠んでいることから、孤邨にとって俳諧が親しいもので、抱一の下で俳諧的な抒情性や通俗性の感覚を養っていたことが分かるのである。以上の号、印章、落款から見た作品の編年については〔表1〕を参照いただきたい。これまでに50点ほどの作品が知られているが、さらなる画風、書風の検討が必要であり、作品の編年作業は引き続き難しい課題である。3.描写について今回は「藤図屏風」(福岡市美術館蔵)〔図2〕(注12)について、藤の花の描写を中心に見ていきたい。「藤図屏風」は、銀箔地の上に白藤が描かれた、六曲一隻の屏風である。絵の上下に余裕がなく、紙継の位置や紙幅からも上下が切りつめられていることが今回行った調査から判明した。また、引き手跡のようなものも見られ、最初

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