― 71 ―なおかつ花の向きや開き具合に微妙な差異をつけている点や、風に煽られる花の状態を描く点で自然の景趣を捉えた表現であるけれども、その形は決して写実的ではなく形式化していると思われる。しかも、この細部まで描きこむ意識は僅かにしつこさがあり装飾的ともいえよう。孤邨がどこからこの描写を得たのか、その独自性の源流として中国画、そして本草学やその写実表現といったものからの影響が十分に考えられるが、今回は特定するに至らなかった。花のあり方において写実的であり、形体において装飾的であるということは、孤邨の自然観の一つであり描写の特徴だと考える。4.明治期以降の琳派と野沢堤雨孤邨は明治を目前にして没している。その後、「琳派」はどう受け継がれていったのだろうか。近代の琳派評価は、海外の光琳研究から始まっている。特にクリストファー・ドレッサーの『Japan: Its Architecture, Art, and Art Manufactures』(明治15年・1882)、ジョージ・オーズリーの『The Ornamental Art of Japan』は、いずれも『光琳新撰百図』から図を掲載している。孤邨の存在を明確に示したのは、農商務省による『稿本日本帝国美術略史』(明治34年・1901)で、「池田孤村、越後の人、年少くして東都に到り、抱一に随ひて畫を學び、遂に其の堂に昇る、晩年に至りて明畫を規倣し、稍畫格を改む」と言及する。しかし、『光琳派画集』(明治36年・1906)では其一まで紹介されるものの孤邨は一切触れられず、さらにその後、琳派を研究した菱田春草(1874-1911)や横山大観(1868−1958)による『絵画について』では「不幸にして後勁継がず、中に唯一の抱一ありと雖ども既に深く写実派の感化を受けて復た印象派の面影を存ず所少く、其後は更に謂ふに足るものなし」と評されるのである(注15)。では実際に系譜を継いだ画家はどうだったのか。ここで孤邨の弟子であった野沢堤雨(鷗邨)について考察してみたい。堤雨は通称久太郎、号は静々、鷗邨(村)、対桜軒、晴閑堂などがあり、安政6年(1859)の『書畫薈粋二編』によれば、久松町に住む頭城久太郎、名は教信、号は鷗村、静々、九甲庵が野沢堤雨であると考えられる(注16)。この時、孤邨も久松町に住んでおり、既に交流も深かったであろう。『光琳新撰百図』では堤雨も編集に関わり跋文をよせている。詳しい伝記は明らかでないが、堤雨は中村岳陵(1890−1969)、伊藤晴雨(1882−1961)の師であり、晴雨の弟・櫟堂によれば、堤雨は小梅、仲之郷、須崎と画室を変え、慶応2年(1866)、30歳で世帯を持って向島須崎村字柳畑に居を構えた際、鷗邨から対桜軒堤雨と改名したようだ(注17)。明治40年(1907)9月17日の読売新聞朝刊の記事(注18)では、15日の
元のページ ../index.html#81