注⑴ 古筆了仲編『扶桑画人伝』四、坂昌員、1883年参照。 「孤村 二百五十八 池田氏名ハ三信孤村又舊松軒ト云フ越後ノ人弱年ノ頃東都ニ来リ抱一ノ門ニ入リテ寄宿随従シテ画ヲ研究シテ遂ニ其真ヲ得タリ晩年画風稍ク改リテ明画ノ風ヲ筆作ス曾テ抱一ノ著ス光琳百圖ノ意ヲ継テ新撰光琳百圖ヲ著シテ世ニ賞玩セラル一時抱一ノ遺跡ヲ鍳定シテ世人ノ疑惑ヲ解スルニ至ル性雅趣アリ世ニ一竒人ト稱セラル慶應二年二月十三日歿ス六十六歳明治十六年迄十八年」⑵ 森銑三、中島理壽『近世人名録集成』勉誠社、1976年参照。 ・『江戸現在廣益諸家人名録』須原屋佐助、天保7年(1836) 「画 孤村 名三辰字周二 號画戰軒 深川冬木丁 池田孤村」 ・松靄道人編『安巳新撰文苑人名録』安政4年(1857) 「仝(画) 同(江戸) 濱丁 池田孤村」 ・畑時倚毛義輯『書畫薈粋二編』安政6年(1859) 「画家 名三信号孤村又舊松軒煉心窟 両国久松町 池田孤村 江戸ノ人画名天下ニ髙シ然レドモ名ヲ得ルコトヲ好マズ戸ヲ閉テ獨樂ム又古書画ノ鍳定ニ至リ夜、堤雨が向島百花園で鈴虫を放す会に参加していたことを伝える。文化人の参加者には、俳人の其角堂機一(1856−1933)、同じく俳人で抱一研究で知られる岡野知十(1860−1932)、編集者、随筆家の青柳有美(1873−1945)などがいたようで、その交友関係も興味深い。明治41年(1908)には、村越向栄(1840−1914)、稲垣其達(生没年不詳)、酒井道一(1845−1913)と「流祖の盛名あるに拘らず晩近其道を研究するもの少きを憂ひ」四皓会(注19)を結成し琳派の書画会を行っている。明治20年代から日本美術史が成立していく中での「琳派」の在り様と、また明治30年代の三越の着物デザインといった光琳受容とは別に、実際の継承者であった彼らの活動や存在は追いやられてしまうが、三越の動きと千住の琳派作家たちが連携して動いていたように(注20)、向島での彼の活動や交友にも注目し課題としたい。5.今後の課題以上、資料から伝記と作品の整理を行う基礎的な研究を行なった。新たな資料である俳諧摺物によって、孤邨の若い時期の交友関係や背景を確認し、また、描写の比較においては、孤邨の特徴として独自の写実性と装飾性を明確にできたように思う。今回は触れられなかったが、落款や印章には同じ特徴を持つ複数のグループに分類することができる。今回の研究を基盤に、作品の編年と画風展開を考察するとともに、孤邨や堤雨の交友関係を含め「琳派」をめぐる状況について引き続き研究課題としたい。― 72 ―
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