⑾ 「歸ろふか行こふか土手の夕蛙」の句が、文政11年(1828)、『軽挙館句藻』「吉原風流」の項に見られる。2つ前の項に「三月」、9つ後の項に「六月」の記述があり句はその間に作られている。この年、11月29日に抱一は没したため、俳諧摺物は3月以降11月以前に少なくとも制作が始まっていたと考えられる。⑿ 福岡市美術館ご所蔵の池田孤邨「藤図屏風」の調査研究および図版掲載にあたり、福岡市美術館の錦織亮介氏、岩永悦子氏、後藤恒氏には格段のご配慮を賜りました。厚く御礼申し上げます。⒀ 岡田梓氏によると4点ほど藤を描く草花図がある。岡田梓「十七世紀宗達派を中心とする草花⒁ 出光美術館ご所蔵の鈴木其一「藤花図」の図版掲載にあたり、出光美術館の安藤智子氏には格⒂ 菱田春草、横山大観『絵画について』『日本美術院百年史』第三巻下、1992年参照。⒃ 森銑三、中島理壽『近世人名録集成』勉誠社、1976年参照。 『書畫薈粋二編』安政6年(1859)にて、「画 名教信号鷗村又静々九甲庵 久松町 頭城久太郎 江戸ノ人若キ時ヨリ画ヲ好ンテウムコトナシ殊ニ密画ニ工ミナリコヽニ画ク所ハ源氏浮舟ノ圖又□フル時ハ和歌ヲ詠シ并ニ茶道蘭麝ヲタノシム実ニ風流ノ一才子ナリ」とある。⒄ 伊藤櫟堂「向島にいた人々」『伊藤晴雨自画自伝』新潮社、1996年参照。堤雨は国学を学び、漢籍は四書を教授するほどで、書、俳句、茶華道と優れ、志野流の香道に至っては多くの門人がいて河東節を好むなど、「明治初年の頽廃期を通過してきた人としては稀なる典雅な人」と櫟堂は評している。⒅ 「百花園の鈴蟲はなし」『読売新聞』(明治40年(1907)9月17日(火曜日)朝刊記事)に、一昨夜(15日夜)に百花園で名月を楽しみながら鈴虫を放す催しが行われたことを伝えている。参加者は他に政治家の榎本武揚(1836−1908)、銀行家の池田謙三(1855−1923)、酒井抱一に影響を受けたとされる沖一峨の長男で、政治家の沖守固(1841−1912)がいた。ちなみに守固の号は九皐である。記事最後に催しの際に詠まれた俳句、和歌が紹介されている。⒆ 『美術新報』第七巻第一号にて「尾形光琳の遺鉢を継げる村越向栄、野沢提雨、稲垣其達、酒井道一の四氏は流祖の盛名あるに拘らず晩近其道を研究するもの少きを憂ひ今回四皓会なるものを興し三月廿六日午前九時より神田明神境内開花楼に光琳系の古画数百点を展列して同人の研究に資し余興に右四皓の席上揮毫を催して半日の娯楽を買ふと云ふ。」『平成二十二年度企画展 千住の琳派―村越其栄・向栄父子の画業―』足立区立郷土博物館、2011年参照。⒇ 玉蟲敏子「琳派の受容と再生─夢の花園への憧れ─」『平成二十二年度企画展 千住の琳派─― 74 ―うち、「六月一日抱儀のもとより加賀殿の雪一籠送られる時 御手紙は跡にてひらく氷室哉」とある。図の変革とその意義」『日本女子大学大学院人間社会研究科紀要』第13号、2007年参照。段のご配慮を賜りました。厚く御礼申し上げます。村越其栄・向栄父子の画業─』足立区立郷土博物館、2011年参照。
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