鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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草干し》の2点がカンヴァスの両面に描かれている。《海岸の岩》の左下には、サインと制作年「P. Gauguin 88」、献辞「à l’ami Moret(友人モレへ)」が記されている。モレとは、ポン=タヴェンで出会ったアンリ・モレのことで、シェルブール生まれの画家である。彼は1888年の夏にゴーギャンに出会い、ポン=タヴェン派のグループに加わった。同じくポン=タヴェン派の画家エルネスト・ド・シャマイヤールは、当時のことを次のように語っている。「1888年、ゴーギャンはラヴァルとモレ、そして私と共に、ポン=タヴェンにいました。ベルナールという名の若い画家もやってきました。」(注2) ゴーギャンは作品の取引の記録を手帳に残しており、本作がモレへ譲られた記録は1890年以降には使用されていない手帳に記されていることから、この作品の贈与は1890年以前と考えられている(注3)。一方、《木靴職人》にはサインはない。このことから、まず《木靴職人》が描かれ、その後に《木靴職人》を裏にしてカンヴァスが張り替えられ、《海岸の岩》が制作されたと推測される。《海岸の岩》に描かれている海岸の正確な場所は不明であるが、ポン=タヴェンから15キロほど離れた港町ル・プルヴュとの指摘がある(注4)。ル・プルヴュにはこの作品に見られるような岩場が続く海岸があり、ゴーギャンは1886年に初めてポン=タヴェンを訪れて以降、モレを含むポン=タヴェン派の画家たちとともにル・プルヴュに滞在し制作を行っている。また本作が描かれた1888年において、10月にアルルに移動するまでの間に描かれた海岸風景は、ダニエル・ウィルデンスタイン編纂による2001年に出版されたカタログ・レゾネの掲載作品のうち、本作を除くと《ブルターニュの海岸の岩》〔図3〕、《波》、《断崖の牛または渕》の3点のみと数は少なく、そのうち《波》はル・プルヴュ、《断崖の牛または渕》はル・プルヴュから3キロ離れたプルサッシュの断崖であることが確認されている。《ブルターニュの海岸の岩》は《海岸の岩》とほぼ同じ構図の風景であり、その場所も不明であるが、《海岸の岩》よりサイズは大きく、描写はより緻密である。そのため、まずは《海岸の岩》を実際の風景を前に描き、それを発展させて《ブルターニュの海岸の岩》を描いたと考えられる。岩場のある海岸という主題や構図はモネの作品を想起させ、さらに波の動きなどの素早い筆致を伴う表現もまた、印象派の手法を引き継いだものである。ブルターニュの海を描いた《海岸の岩》とまさに対になるように、ブルターニュの大地を感じさせるのが《木靴職人》である。ゴーギャンは1888年3月末のシュフネッケル宛の手紙に次のように書いている。「私はブルターニュが好きだ。ここには荒々― 79 ―

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