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― 90 ―描いた作戦記録画との共通点を見ている(注12)。危機の時代を生きた画家たちの強迫観念が、集積された肉体や歪められた肉体を描いてしまうという点において、ある種の時代精神を感じることが出来る。そしてさらに、丸木夫妻による原爆の図シリーズをここに加えることも可能であろう(注13)。さて、戦後日本では、焦土と化した都市の姿を描いた画家がいる一方(注14)、戦火を免れ、比較的被害の少なかった「地方」の風景を描いた画家たちもいた。44年末頃からの都市部での空襲の激化にともない、多くの美術家たちが郷里や空襲のない地方へと疎開し、敗戦後も住居や食糧問題のために疎開先にとどまっていた。疎開先での手近なモチーフとして風景が選ばれたこともあるだろうが、その奥には、「国破れて山河あり」という心境が共有されていたのかもしれない。敗戦の記憶も生々しい40年代後半から50年代にかけて、画家や写真家が東北地方や日本海側の漁村、あるいは農村の光景に惹きつけられたのは、甚大な被害をもたらした戦争を経験してもなお「変わらぬ日本」をそこに夢見たからであろうか。実のところ、この「過去と変わらぬ風景」を見る視線は、戦前の朝鮮半島の風景や風俗に「失われた日本の過去」を見出した視点と根底でつながっているように思われる。植民地「朝鮮」に過去の姿を見出す視線には、近代化を果たした日本と徹底的に区別し、さらには「遅れた朝鮮」を日本が保護するという植民地政策を正当化し、「日本の国土」としてまなざそうとする欲望が見え隠れしている。一方、特に50年代以降、たとえば、濱谷浩が写真集『裏日本』〔図4〕を発表し、木村伊兵衛が戦後の代表作「秋田」シリーズ〔図5〕を結実させ、東山魁夷が青森県の種差海岸の風景をモチーフに戦後日本を象徴するような《道》を制作するなど、戦後復興期に東北地方が重要なモチーフとして浮上してくることの背景には、「日本の国土」の再編をめぐって、「中央」からの「地方」への複雑なまなざしが再び生まれていたともいえるのではないだろうか。このように人物の肉体描写においても、あるいは風景描写においても、戦前と戦後には表現の連続性が見られるのである。美術家たちは戦争が終わってもなお、自らの体験の影響から抜けきることのできない精神性を共有していたと考えるべきではないだろうか。3.1940年代の多層性3-1.固定化された物語の解体1940年代の連続性について確認した上で、さらにこの時代の美術の動向を根本的に再検討するために、これまで見過ごされがちであった作家たちに注目してみたい。近

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