― 92 ―3-3.地理的な広がりの中の美術1940年代という時代を考えるならば、日本国内だけではなく、アジア諸国における美術の動きについても目を配る必要があるだろう。20世紀前半、朝鮮半島および台湾は日本の植民地とされ、また中国東北部(旧満洲)は日本の強い影響下におかれた。これらの地域は「外地」として、官設展覧会の実施など日本の文化政策が行われた(注20)。いずれも日本の文展を手本に創設され、制度に対する反発を受けながらも、各地の近代美術の形成に大きな役割を果たしている。各官展にはほぼ毎回日本画壇の重鎮が審査員として招かれ、日本人の視点を中心として作品の評価や傾向が定まっていくこととなる。地方色(郷土色)が審査のひとつの基準とされ、民族衣装に身を包んだ女性やその土地らしい名勝旧跡、自然景観を表現した作品が散見され、また審査員として訪れた美術家たち自身の作品にも異国趣味に満ちたまなざしが反映され、中央の官展(帝展、新文展)等に出品された例も少なくない〔図8、9〕。特に朝鮮半島を描いた作品では、近代的な都市風景ではなく、チマチョゴリを着た女性、茅葺、瓦葺の家や城郭などの建物、市場に集う人々などの前近代的な姿ばかりが取り上げられており、そこに「失われた日本の過去」を見出すことがしばしば行われた(注21)。同様に東南アジアの各国でも、占領中に日本が行った公募コンクール形式の美術展覧会などが、その後の美術活動に少なからぬ影響を与えている(注22)。また近世から近代へと時代が動く中で日本に組み込まれ、常に翻弄されてきた沖縄の存在も忘れてはなるまい。いわゆる南洋群島の存在は、戦前の「大東亜共栄圏」の広域性を示すものであるが、この本土から遠く離れた場所でも日本人美術家は活動していた。2008年に開催された「美術家たちの「南洋群島」」に先立って行われた調査によると、日本軍の占領と委任統治決定以降、太平洋戦争開始までに南洋群島を訪れた美術家たちは50名以上にのぼるという(注23)。その中の一人赤松俊子は、南洋を訪れた体験をもとに帰国後、《休み場》や《アンガウル島へ向かう》〔図10〕といった作品を残しているが、和紙にペンのようなものを用いて描き、水墨の技法も取り入れている。ここにはこの時期結婚した丸木位里からの影響が見て取れ、加えて人体の群像表現の中に50年代以降に制作する《原爆の図》へのつながりがあると指摘されている(注24)。さらに、帰国後に手がけた絵本『ヤシノ木ノ下』、『ヤシノミノタビ』は、内容こそ日本の南進政策に協力したと後に批判を受けるが、豊かな色彩や線描は戦後数多く手がけることとなる絵本や挿絵の仕事へと連綿とつながっている点も見逃せない。また、長年にわたって南洋に定住し、
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