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― 101 ―関連の一次資料の収集を一層充実させ、淡交会の当時の発表状況を検討するに至った。淡交会の会員は、帝展の東から小堀鞆音、川合玉堂、西から竹内栖鳳、山元春挙、院展から横山大観、下村観山である。彼らの風景画の出品傾向に注目すれば、まず川合玉堂は、日本の田園風景や山景を淡彩で表す温雅な作風を得意とする。第六回展の「石楠花」、第七回展の「春雨」、第九回展の「峰の夕」〔図5〕は、横長の画面で自国の温和な景色を表現している。一方、山元春挙の作品は、縦長の構図を生かした高さのある絵画空間の演出が際立つ。第三回展の「山市之図」〔図6〕、第七回展の「阿蘇高原」、「奥山の春」などは、高く聳える山岳の景などを水墨や着彩で克明に描き出す。そして、横山大観には、この時期の特徴として水墨画に傾倒する様子が看取される。第一回展の「東山」〔図7〕、第三回展の「曙色」、第九回展の「杜鵑」では、「片ぼかし」と称する繊細な階調の墨の暈しによって幽玄な連峰の画を開拓する。栖鳳と同様に、大観が淡交会において水墨主体の風景画の表現に一作風を形成する様子は注目に値する。栖鳳は、第一回展に「城址」、第三回展に「宿鴨宿鴉」〔図2〕、第四回展に「水郷」、第六回展に「潮来小暑」〔図8〕、第七回展に「晩鴉」〔図1〕などの風景画を出品する。淡交会以前の風景描写からの表現上の展開として、着彩や水墨の滲みを一段と強調した湿潤な大気の表現を指摘できるだろう。また、他の画家と異なり、主題に山岳風景を扱わず平野風景を取り挙げる姿勢は栖鳳独自の試みと言える。彼の淡交会出品作には、この平野風景の舞台としてしばしば関東地方の水郷潮来が選出される。次項では、この水郷潮来を手掛かりに水墨風景画の創作の源泉を追究する。2 制作背景の吟味─創作契機としての水郷潮来と中国揚州竹内栖鳳が初めて茨城県潮来を訪れたのは昭和2年5月である。彼はそれ以来同地の水村風景を好み、同年11月、翌年秋と連続して同地に足を運ぶ。昭和14年5月には、潮来の水神の森に竹内栖鳳来遊碑が建立される。最後の潮来訪問は、彼の死の2年前の昭和15年5月である。栖鳳は横画面に平野風景を描くことを目指し、広大な平地が続く水郷を自ら舟に乗り込み取材した。栖鳳の潮来取材の様子は、彼自身の回想録や同地取材の写生帖などにより窺うことができる。筆者はこれまでも潮来の現地調査などを進めてきたが、この度は京都市美術館の御協力を得て栖鳳の写生帖を閲覧した(注3)。現地取材から絵画創作に至る経緯を、語録と素描、作品を対照させ総合的に分析した。ここではその一部を示した

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