tsuto
112/639

― 102 ―い。栖鳳は昭和3年秋の三回目の訪問において、真菰が葉先から色付くのに対し、ポプラは下葉から色付くことを発見したと記録がある。写生帖には真菰やポプラの葉の色付きを色鉛筆によって表す描写が数カ所確認される〔図9〕。そして、その成果は昭和6年制作の「潮来風色」〔図10〕のポプラの樹木の枯れ方の表現に実現された。また、栖鳳は自身が画趣を覚える題材として、夕暮れの葦原に浮かぶ月や、農家の一族が牛とともに乗り込む舟、ポプラと葦原に囲まれた鳥居などを挙げる。いずれの題材も写生帖に一致もしくは類似する素描が認められ、それは着彩画や水墨画、色紙、漫筆と実に多様な形式により作品化に至る。栖鳳の水墨風景画に頻繁に登場する潮来特有の風物に、水村の交通手段である舟、片側のみ欄干をもつ潮来十二橋がある。これらは、溌墨表現による墨跡が主体となる作品において、その場所が水郷潮来であることを示唆する貴重な手掛かりでもある。舟と潮来十二橋に対する画家の関心は、栖鳳語録からも看取される。写生帖では舟の造形や橋の構造を細部まで丁寧に描写する様子が認められた〔図11、12〕。しかし、水墨画作品においては、これらとは対照的に、極めて簡潔な描写により表現される。ここに、実物観察に専心する画家の姿勢と、写生取材から絵画創作へ進展させる表現態度、その両者を垣間見ることができる。竹内栖鳳は水郷潮来に、かつて旅した中国江南地方の揚州の光景を見出していた。彼は潮来十二橋を揚州の片欄干の橋に重ね合わせ、ポプラの樹木を柳に対比させる。筆者はこのことに着目し、栖鳳の手掛ける中国主題と潮来主題の風景画の図版を広く収集し、水墨風景画の創作契機について探究した。栖鳳は大正9年と翌年に中国を旅し、中国東沿岸部の北から南までを訪れる。しかし、彼が描く同地の風景画は長江以南の景色が大多数を占め、さらには温暖湿潤な江南地方を主題に扱う作品が多いことが明白となる。また水墨画より着彩画の作品が多数を占める。特筆すべきは、大正11年の「雨の蘇州」〔図13〕、「揚州城外」〔図14〕などの大正後期の一部の作品である。画の重心に樹木を据える栖鳳の水墨風景画の構図が、中国江南の彼のこれらの風景画にその起源を遡ることを確認できる。栖鳳の潮来取材の作品の多くは水墨画により絵画化される。しかし、潮来初滞在から水墨画の初作が描かれるまでに5年の空白期間があり、この時期、栖鳳が同地取材の着彩画の制作に励行していることが判明した〔図8〕。彼は着彩による絵画化に試行錯誤した後、最終的に溌墨技法による水郷の水墨画に到達したと考えられる。

元のページ  ../index.html#112

このブックを見る