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― 103 ―この事実を裏付けるものに、昭和8年制作の墨画淡彩作品「水郷」〔図15〕がある。潮来取材の水墨画の初作が描かれるのが昭和7年頃、作品に溌墨技法が顕著に現れ始めるのが昭和8年である。すなわち、本作品は着彩画から水墨画への移行を示し、さらにはここに溌墨表現の取込みの端緒が見出される。本作では淡彩によりポプラの木立が描かれ、墨跡の付近にはポプラの枝葉が描かれている。つまり、一見事物を象ることのない溌墨表現は、ポプラの樹木を象徴することが判然とする。写生取材において忠実に描写された水郷の舟や橋、ポプラは、水墨画作品において簡潔な墨筆と象徴的な墨跡により表現され、彼の心象風景を映し出したと言える。ところで、作品の基底材に注目し確認すれば、潮来の着彩画や中国の風景画にことさら絹本が使用されるのに対して、晩年に特異な一連の水墨風景画には1点を除き全てに紙本が用いられる。次項では、彼の水墨風景画の基底材として紙本が欠かせない事情を、当時の画壇状況とともに検討する。3 画壇動向に関する考察─基底材紙本と水墨表現の再評価竹内栖鳳の水墨画における紙本の選択には、当時の日本画壇の動向が深く関与したと考える。大正から昭和への移行期において作品の基底材は絹本から紙本へと推移し、そこには越前の製紙家、初代岩野平三郎の貢献がある(注4)。栖鳳は奉書紙の改良を求め、条件のひとつとして水の含みが強くないことを希望する。初代平三郎は奉書紙の原料である楮に竹のパルプを混入することを考案し、栖鳳紙が誕生する。完成時期は大正14年3月29日頃と推定される(注5)。このことは、栖鳳晩年の特異な水墨風景画の制作が大正末期頃より始まることに符合する。この栖鳳紙を巡って、筆者はこれまで岩野平三郎製紙所の取材調査などを行った。この度は高知県立紙産業技術センターの御協力を得て試験を実施した。初代平三郎が抄造した栖鳳紙は現在、作品に使用されるもの以外に確認できない。そこで、筆者は初代平三郎の存命中に二代目平三郎が漉いた栖鳳紙と奉書紙を入手し、繊維組成等の試験を依頼した(注6)。その結果、二代目抄造の栖鳳紙には竹パルプの代用として針葉樹パルプの使用が認められた。原料と紙質の関係については、奉書紙の原料の楮は浸透性が高く、墨の滲みの先端が不揃いだ。一方、竹パルプや針葉樹パルプは浸透性が低く、墨の滲みの先端が均一に広がる。これは栖鳳紙が奉書紙より水の含みを抑えることを要求された点に合致する。さらに、最終段階まで墨の滲み具合が調整された栖鳳紙開発の実態とは、墨の滲みに均一性を与えることであったと推測できる。栖鳳は、絵画の基底材について、下絵を作り写実的に描き込む場合には絹本、他方、

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