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― 104 ―即興的に心情を表現する場合には紙本が適すると語る。また、絹本と比較して紙本は、墨が浸透しやすく均等に滲まないという絵画制作上の困難を指摘しながらも、その偶発性を巧みに生かそうと栖鳳はむしろ意欲的だった。大正11年の日仏交換美術展出品の「雨の蘇州」〔図13〕は絹本が使用されるが、彼は当初、破墨山水の妙を紙本に描くことを検討した。墨と紙が創出する滲みの表現は、結果的に、中国ではなく自国の水郷風景において一層洗練されることとなる。さて、近代日本画においては、明治時代以降、特に東京画壇では朦朧体の没線描法が水墨表現ではなく色彩表現を主体に発展を遂げる。しかし、大正時代に入り近代化の反動として東洋回帰への気運が高まり、水墨表現が再び見直されるようになる(注7)。ここにおいて、大正から昭和初期における水墨画の再評価は、まさに、絹本から紙本への作品基底材の移行期と重なることが判明する。筆者は竹内栖鳳及び同時代の画家たちの水墨画について図版や文献の収集を行い、栖鳳の水墨画を日本画壇の動向において捉えようと試みた。まず、竹内栖鳳の生涯を通じた水墨表現の変遷について概観する。画業初期、明治29年の「松韻流水」〔図16〕は諸派の筆法を統合した墨絵と言える。西欧から帰国後、明治34年の「羅馬古城図」、同37年の「ベニスの月」〔図17〕には墨線の抑揚や筆致が見られない。現実の遠近感や空間を表現するために、水墨の階調、濃淡が統制される。そして、明治40年の「雨霽」、同44年の「雨」〔図18〕、大正7年頃の「待乳山驟雨」には墨の暈しあるいは滲みが潤い溢れる情景を表す。その後、彼の水墨画は大正末期以降、滲みの強調が一段と際立ち始め〔図2、3〕、昭和初期には、墨の偶然的な妙味を引き出す溌墨表現へと発展する〔図1、4〕。大正から昭和初期における日本画壇の水墨風景画の主題を検討し分類すれば、第一に、自国の湿潤な気候風土を題材とし、風雨や雲煙、雪の天候、また田園風景や山岳風景を表すものがある。第二に、画家自身が理想とする文人の山中隠棲の図、画家の精神的世界を写した胸中山水の図が挙げられる。第三に、同時代の生活風景や風俗を描くものがある。つまり、画家たちは水墨により自国の風土や主観的風景、同時代の風俗を表現している。水墨画再評価の動きには東洋への立ち返りと主観的表現への傾倒が見届けられる。この時代に栖鳳は、日本の水村風景に同じ東洋中国の風景を見出し、感覚的な溌墨表現により描き出す。彼はあたかも平野風景の水墨画によって水墨山水の新境地に挑むかのように思われる。ここに、近代日本画において西洋経由で東洋の水墨画を取り戻し、東洋に回帰しつつ新奇な着想を取り込もうとする、竹内栖鳳

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