― 2 ―てかす〳〵の画ともつかうまつる」ほどになった、その報恩のため絵巻を本門寺に奉納する。この跋の中でも特に強調されているのが妙性尼への感謝である。古信は死に際して、将軍家より恩恵を受けながらも報いずに死ぬことを嘆き、幼子であった典信を育成して「千々の御めくみのひとつも、われにかはりてむくひつとめさせよ、ゆめをこたることなかれ」と遺言した。妙性尼は典信の師と頼むべき人のいないなか、「ミとせかほと勇猛さうしに、夏は蚊冬は雪にも御身ひとつミちのふかために施し、栄川と号せられて、あはれねかはくハありし御ゆい言たかはて、世々のあちたえす家の風をおこしおほやけのつとめよにもかすまへられなむ、またなか〳〵父君のおもて母ふせつへくひとヽならましかハいけるかひなし、もし家のミちつきはてヽむとならは、まつミつからの命をとり給ふへく、よひとなく神仏にいのり給ひし」という典信育成に尽くす苦闘の生活を送った。典信7歳の時、妙性尼は死を覚悟するほどの病に倒れ、上記のことを典信に遺言として語り、家の道を示したという。その後本復した母の長寿を願う気持ちが絵巻奉納の1つの契機であるが、上記のくだりで注目されるのは、古信の画号であった栄川を妙性尼が号し、「おほやけのつとめ」を行ったという行である。つまりは、典信が2歳にて家督を継承した後に、幼少の当主に代わって、妙性尼が栄川を名乗って公務を行っていたと読めるのである。これは典信元服までの間、木挽町家はどのように公務を務めていたかを知る上で重要な記述である。また、のちに典信が栄川の号を継承することも、「われにかはりてむくひつとめさせよ」、という古信遺言を体現した妙性尼の意思であった可能性が極めて高いと考えられる。「狩野勝川先祖書」(国立国会図書館蔵 以下、「先祖書」)や『古画備考』によると、妙性尼は水戸藩家臣岡部忠平以誠の娘という。『水府系纂』(注4)によると、岡部忠平家は儒者として仕えた家であったが、妙性尼の父以誠は小姓頭、用人、江戸奥方番頭、馬廻頭、書院番頭など藩主近くで要職を勤めた三百石取の人物であった。前後二人の妻との間に四人の男子をもうけている。同書の系図に妙性尼は記されないが、長子以利は天明7年(1787)に76歳で没しているので、天明2年(1782)に80歳以上で没する妙性尼(注5)は前妻の子であったと考えられる。以誠は宝暦9年(1759)に没するが、家督を継承した妙性尼の弟にあたる以利は更に家格を上げ、老中、寄合頭上座まで進み、役高を含め千石取となっている。妙性尼が正規に画を学んでいたかは定かではないが、後裔の朝岡興禎による『古画備考』は妙性尼の作品は現存せずとした上で、木挽町家に曾存した2つの作品(「菊
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