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― 136 ―われわれの大陸をまたがる同一の文明の大きな流れが、日に日に西洋の芸術の流派における、地域的独自性の最後の痕跡をかき消している。かつてはゲニウス・ロキが燦然と輝いていたのだが。〔中略〕これと対照的な例として、読者の注意をしばらくの間ある芸術の出現に向けてみたい。それは、西洋から来た動向にすでにおどかされているものの、まだ深刻なほどには損なわれてはいない芸術、そう極東の芸術である。だが中国について話してみようというのではない。そうではなく、中国の隣の小国、日本である(注13)。日本の芸術、それもとりわけ日本の装飾芸術の質の高さが目にとまり、シェノーが日本美術を論じるにいたったのはたしかだろう。一方でこの記述に見られるように、日本美術の中に、シェノーは自身の掲げる「芸術におけるナショナリズム」という理想の実現を見出したこともまた間違いない。繰り返し述べれば、19世紀半ば以降、フランスでは諸外国の美術との比較の中で、何が真正な「フランス派」であるのかという議論が活発となっていた。そうした中でシェノーは、ギリシアやイタリアに範を求める新古典主義のアカデミズムのために、フランス美術、さらには西洋美術全体が、地域的独自性を喪失しているとする問題意識を育み、それに対抗するための概念として「ナショナリズム」を掲げた。そこへ現れたのが、この概念をいわば見事に体現していた日本美術だったのである。日本が開国したことによって、西洋で日本美術を目にする機会は飛躍的に増えた。だが他方で開国は、日本に西洋の芸術が流入することもむろん意味していた。よく知られているように、幕府は1867年パリ万博に開成所画学局の画家による、日本的な主題の油彩画を10点送り込む(注14)。こうした絵画は額装された上で、イタリア絵画展示室の一画に掛けられることとなる。西洋の技法を用いた絵画を前にしたシェノーは、批判的な言葉を書き記す。博覧会でわれわれは、明暗法を用いる西洋の技法で描かれた日本絵画の企てを見た。包み隠さずに言えば、こうした初めての試作品は嘆かわしいほど凡庸で、画学生の作品のようなのだ。独自性、魅力、日本的気質の素直なところがまるで欠けている。こういったものを見ると、いっときのものであったとしても、西洋が日本の風習、とりわけ美術に悪影響を及ぼしかねないと思わせられるのだ(注15)。

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