― 139 ―実際、日本美術に見られる、日本独特のモチーフをそのまま写し取った作品が1878年の万博の際には散見されたようで、シェノーはこう嘆く。この手本〔セルヴィス・ルソー〕は大変洗練されていたので、製作所の図案家たちはそれを真似ることを慎重に避けた。反対に彼らは全てを日本美術から借りたのだ。つまり構図、デッサン、色彩である。彼らは画帖を丹念に見て、それらを写し取り、モチーフを自分たちのブロンズやファイアンスの陶器に持ち込んだのだ。彼らは人物、類型、服装、態度、パレットの色調、さらにはエマイユの底の網目状のひびまで模写したのである(注24)。日本美術の安易な模倣に対するシェノーの姿勢は一貫して厳しい。単にそれが異国趣味の次元にとどまっていたからというだけではない。それ以上に、異国の芸術を模倣することは芸術の地域的固有性を喪失することと同義であったからだ。こうしてみると、シェノーのいう「ナショナリズム」が日本美術論の全体にいかに響き渡っていたかがわかるだろう。当初の問いに立ち返るならば、シェノーが日本美術のあり方に「ナショナリズム」の理念が結実しているのを認めたことが、極東の芸術を積極的に論じる契機になったと答えてよいだろう。そしてまた表層的模倣に陥らずに、フランス美術の固有性を保ちながら日本美術に学ぶという困難な課題に対しては、日本の装飾文法の特質を抽出することで解決を試みたのだといえる。1860年代末にシェノーが早くも本格的な日本美術論を著し、さらには日本美術の本質を見事に規定することができたのは、美術批評家として培った確かな洞察力があったからにほかならない。しかしながらまた、西洋諸国の芸術のアイデンティティーが問い直される時代状況が用意され、それに対してシェノーが「ナショナリズム」の理念を練り上げていたことも、こうした歴史的なテクストが生まれる場を作り出していたのである。注⑴ Ernest Chesneau, Les Nations rivales dans lʼart, Paris, Didier, 1868.⑵ Ernest Chesneau, LʼArt japonais: conférence faite à lʼUnion centrale des beaux-arts appliqués à l’industrie, Paris, A. Morel, 1869.⑶ 1860年代前半からシェノーには日本美術に触れる機会があった。例えばシェノーは日本の美術品も展示されていた1862年のロンドン万博を訪れ、記事を新聞に連載している(4, 11, 12 octobre 1862 ; 8 novembre 1862, LʼOpinion nationale)。またシェノーはナポレオン三世の従姉妹マチルド皇女のサロンの常連のひとりであった。ゴンクール兄弟は、1864年にマチルド皇女に日
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