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― 5 ―は注目される。「芝の毘沙門天祠」とは芝金杉正伝寺の毘沙門天を指す。正伝寺の毘沙門天は伝教大師自作と伝えられる霊像で、『御府内寺社備考』に採録されている享保2年(1717)の縁起によれば、もと播磨国梶原の一乗寺にあって、鍋冠り法難で著名な日親が同寺を改宗した際に再開眼し、寛文年間に正伝寺に将来されたという。やや後年の史料になるが『江戸名所図会』や『東都歳時記』にも参詣者が群参する様子が紹介されている。妙性尼没後典信が本門寺に建てた「母徳碑」に「毎至二十二日輙沐浴斎戒夜独立庭中誦経以及夜半拝月誓曰児也若不幸不能成業乎則天先殺予矣」と記された、典信の成業を祈誓する厳しい信仰生活の中に見られる22日は、謙柄によれば毘沙門天の日だといい、木挽町家過去帳の妙性尼項には「廿二夜元祖」と注記されていたという。概ね毘沙門天の縁日は信貴山縁起に因む寅の日であるが、22日とするのは恐らく妙性尼における何らかの信仰体験に由来するのであろう。晴川院養信私用日記『文政十一年戊子秋』(注7)九月廿二日項には「今日毘沙門天王かけ奉りて拝したてまつることれひのことし」とあり、後年においても木挽町家では毘沙門天信仰が続いていることが知られる。更に同日記に記された木挽町家に出入りする人の中に、正伝寺の僧侶と知られる多聞院という人物も確認される(注8)。同寺は関東大震災や戦災などの災禍により資料を全く伝えないが、伝承する近世の住職の中に多聞院はいない(注9)。しかし高位の寺院の隠居が、ゆかりの他寺に隠棲することは事例として多く、多聞院もそのような僧であったのだろう。多聞院により毘沙門天は、文政11年7月17日より翌日にかけて木挽町家に出開帳している。これは養信かねてからの願望で、奥の床間に奉安した尊像を養信自ら模写している。また、正伝寺は少なくとも養信代には木挽町家の菩提寺になっていた。文政11年9月1日に7歳で没した養信の娘、安住院は正伝寺に葬られている。養信没年である弘化3年の1月15日から翌日にかけて起こった江戸大火では、家内の者を正伝寺に避難させている(注10)。正伝寺は養信代の木挽町家にとって本来の菩提寺である本門寺よりも近しい存在となっていたのである。養川院惟信から養信まで3代に仕え、養信代には木挽町家の家政を執ったという高弟古藤養山(注11)も、正伝寺に葬られたことを見てもその親密ぶりが窺われる(注12)。木挽町家の毘沙門天信仰が、妙性尼ゆかりであるとの観点より「縁起絵巻」を見ると、前述の見返絵が注目される。すなわち巻一に毘沙門天を配することは、法華経の

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