― 143 ―⑭沼津植松家に伝わる画稿に関する研究研 究 者:MIHO MUSEUM 学芸員 岡 田 秀 之1.はじめに 問題の所在駿河原宿の植松家は、宿場内外に広大な土地を所有する大地主であった。植松家系図によれば、初代出雲李重(元和9年[1623]歿)に始まり、4代目以降代々与右衛門を襲名した(注1)。植松家の家園である帯笑園は、江戸時代後期に松葉蘭などの多くの園芸植物を栽培していたことで知られていた。文政9年(1826)2月29日、帯笑園を訪れたドイツの医師・博物学者シーボルト(1796~1866)は次のように評した。日本風につくられたこの庭園は私がこれまでにこの国でみたものでいちばん美しく、観賞植物も非常に豊富である。(以下略)『日本参府紀行』)(注2)植松家伝来の作品および画稿については、菅沼貞三、佐々木丞平・正子、日比野秀男氏などによって考察され、応挙作品を写した画稿の一部はすでに紹介されている(注3)。本研究対象の植松家伝来の画稿1738点には、応挙へ弟子入りした植松家7代目李興(画号応令)が写した画稿とともに、李興以後の植松家歴代当主が描いた画稿などが多数含まれている(注4)。本研究ではまず植松家と京の絵師たちの交流について確認し、本画稿の概要と歴代当主ごとに関連する画稿類について検討する。次に、植松家6代当主植松季英(1729~1809、号蘭渓、以下蘭渓という)が寛政6年(1794)に書き記した京滞在中の日記より、具体的な京都での活動と画稿の制作について検討し、最後に植松家における画稿の意味について考えたい。2.植松家と京の絵師たち植松家と京の絵師たちの交流は、6代蘭渓によってはじめられた。彼の墓碑銘には、「2、3年に必ず皇京を訪れ、都の風情・閑雅に浸り、高名の士と会うのを生きがいとした」とあり、生涯に18回京・大坂などを訪れ、滞在は数ヶ月から半年の長期に及ぶこともあったという(注5)。蘭渓が京に滞在するとき、原宿松蔭寺の住職であった白隠慧鶴のもとで修行していた禅僧斯経慧梁(1722~87)を頼った。斯経は植松家の家宅から松蔭寺へ通ったとさ
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