― 144 ―れ、宝暦7年(1757)から妙心寺塔頭海福院の住職となっていた。蘭渓は斯経から池大雅を紹介してもらい、海福院経由で絵を注文している(注6)。また、池大雅が没した安永5年(1776)4月13日以降、斯経は蘭渓に円山応挙(1733~97)を紹介し、斯経自ら仲介して応挙に絵を依頼していた(注7)。天明6年(1786)、蘭渓の息子・季興が描いた水墨画2幅を応挙へ送ったところ、「此の二枚の画を一覧候処、甚だ宜敷手筋にて手錬被成候はば、随分発達可相成と奉存候」という返信があったため、翌年3月京へ行き、応挙へ入門を果たした。これ以降、季興はすくなくとも1年に1度は上京し、応挙のもとで絵を学んだという(注8)。蘭渓によって始められた京の絵師との交流は、大雅、応挙だけでなく、応挙の弟子である源琦、長沢芦雪、呉春や岸駒などとも親しく交わり、蘭渓に続く植松家当主も円山派、長沢派(長沢芦洲、芦鳳)、岸派(岸岱、岸連山)などの京の絵師との交流を続けていく。3.画稿の概要本研究の対象とした画稿1738点のうち、制作年代が判明するものは191点あり、植松家歴代当主の筆による画稿は118点確認できた。(表1)また、原画の作者が判明する画稿は200点あり、そのうち円山応挙が80点、岸派が58点、源琦が19点、長沢派が11点確認できる。なお、筆者不明とした1620点には、画帖から分かれた円山応瑞、森周峯などの絵画や上田秋成、賀茂季鷹の書など、未表装の書画27点が含まれている。次に、季興以下植松家歴代当主の紹介と各当主と関連する画稿について見ていきたい。1)植松李興(1774~1831)先述のとおり、季興は天明7年(1787)に父蘭渓とともに京へ向かい、応挙に弟子入りし、応令という名をもらった(以下、応令という)。本画稿中、応令が写した画稿は12点確認できる。このほか、応令の弟で応挙に弟子入りした益田尚友(画号応英)が、寛政9年(1797)に18歳で歿しているため、寛政9年から応令の子季敬が生まれる文化4年(1807)の年記がある画稿は、応令作の可能性がある。応令筆の画稿のうち、「双鶏図」〔図1〕は、裏に「天明六年丙午初秋所図平安東洲于時伊勢松十三才」〔図2〕と書かれている。伊勢松とは応令の幼名で、13歳のときに村上東洲の絵を写したことが分かる。先述の応挙の見立てどおり、稚拙ではあるが
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