― 145 ―見事に鶏の姿を表現している。2)益田尚友(1779~97)応令より4歳年下の弟で、益田家の養子となった。尚友もまた兄・応令とともに京へ滞在して応挙のもとで絵を学んでおり、画名を「応英」といった。(以下、応英という)。本画稿のうち応英筆と確認できるのは23点あり、応挙や源琦(1747~97)の作品を写した画稿のほか、寛政6年(1794)8月に写した顔輝筆「蝦蟇図」写(京都・知恩寺)〔図3〕も含まれる。寛政2年(1790)に応令が写した「虫・魚図」〔図4〕は、6尾の小魚、蝗虫、蟷螂、蝸牛、蟋蟀、蜘蛛などが描かれ、「小魚六尾 イケス魚死写魚生時右如記」(生け簀に飼っていたが死んでしまった魚を写して、右のように生きているときのように描く)という書付〔図5〕がある。このような死んでしまった魚を写生して、尾を曲げて泳いでいる魚を描くという作画態度は、応挙のもとで学んだもので、単に描くための技術だけでなく、対象を見る態度そのものも学習していたことが窺える(注9)。また、寛政7年(1795)に円山家で臨書したと書かれている中国の画家銭選筆「漁夫図」写〔図6〕は、地面に座っている漁夫が口に咥えた糸を右足に架け、両手でその先端を撚っている。この図をもとにした応英筆「柳下漁夫図」写(原画・応挙)〔図7〕があり、銭選筆の漁夫の姿を利用して、土坡と背景に水面と柳を描き加えており、応挙の絵画制作の一端が窺える点で興味深い(注10)。3)植松季敬(1807~86)応令の子で、号を学山、別号を蘭丘といい、帯笑園を訪れた多くの文人墨客に依頼した書画の収集を始めた人物である(注11)。季敬筆の画稿は30点あり、そのうち円山応震が4点、岸駒・岸岱が各1点、岸連山が17点含まれ、岸派が半数以上を占める。このうち天保4年(1833)に写した「虎渓三笑図」写〔図8〕は、原寸大の岸連山の絵を写したもので、岸派の画風を見事に再現しており、季敬が岸派の絵師に絵を学んでいたと考えられる。また、本紙にあらかじめ円形や扇形の外枠を刷った紙に、絵と川柳を書き込んだ画稿があり、どのような用途で使われたのか詳細は不明である。ただ、季敬は弘化4年(1847)貞女列女の和歌百首を集めた『列女百人一首』の出版に関わったとされ、季敬の出版との関係も今後検討する必要がある(注12)。
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