― 146 ―4)植松季服(1841~1913)季敬の子で、名を幹作といい、萍洲という号を用いている。元治元年(1864)幕末の動乱時には長州征伐にともない、治安維持のために農兵に取り立てられ、小銃の稽古をおこなっている(注13)。季服筆の画稿は53点あり、このうち安政4年(1857)作の「幽霊図扇面」〔図9〕や、源琦、岸連山の作品を写した画稿も含まれている。4.植松蘭渓、応令、応英の寛政6年の上京寛政6年(1794)、蘭渓は応令、応英と京に滞在した。このことは円山応挙筆「竜唫起雲図」(東京国立博物館蔵)の表装背面銘(注14)などから確認でき、寛政6年3月から8月のおよそ半年間の滞在中の動向は、蘭渓が記録した『諸事聞書』(以下、『聞書』と省略)によって知ることができる(注15)。具体的には、応令、応英ふたりが応挙のもとで学んでいるあいだ、蘭渓は大坂・京の伏見・大和国の当麻寺、長谷寺、吉野から紀州三井寺、和泉貝塚、摂州摩耶山、播州淡河などを旅している。さらに、蘭渓が京で見聞した事柄も記されており、そのなかには応挙の動向が窺える貴重な記述もある。内容の詳細は別稿に譲るとして、本稿では次の記事に注目したい。一 当年、紀州様、京都御廻見に付き、知恩院脇三井下屋敷にて昼御膳を差上、八郎右衛門殿父子を御召にて、次の間にて御目見へ仕、御出立遊され候節、伏見旅館にて咄申すべきと仰せ聞され候由、此度御馳走に圓山の龍虎墨絵屏風出で来たる。三井より月渓へ頼み、大横物に極彩色の孔雀為書かせ献上いたす。殿様より三井は縮緬二巻、御替紋御羽織、三条橋にて御自作の詩拝領致し候由。(紀州徳川家10代藩主徳川治宝〔1771~1853〕が京都を訪れたとき、知恩院脇にあった三井家下屋敷にて昼御前をさしあげたところ、三井八郎右衛門父子のお目見えが叶い、出発のとき伏見にある旅館で再会して話をしたいと言われた。この度のご馳走につき、円山応挙の龍虎図屏風を出して見せた。また、月渓(呉春)に横長大画面の極彩色の孔雀を描かせて紀州侯〔治宝〕へ献上し、縮緬二巻、御替紋羽織と三条大橋で詠んだ自作の詩文を下賜された。)(注16)本画稿中には対になる龍と虎の画稿「龍図屏風」写〔図10〕、「虎図屏風」写〔図11〕があり、龍図に「圓山蔵 二枚内北三屏風図殿列二写有」、虎図に「圓山蔵 二枚内北三屏風図殿列二在写」と書かれている。筆写した年代は不明だが、両図の書付に共通する「北三」という語を三井家の惣領家である三井北家の省略と考えると、こ
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