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― 147 ―れら2図は上述の「龍虎墨絵屏風」を写したと考えられる(注17)。『聞書』には、応挙、月渓(呉春)、岸駒、源琦、長沢芦雪、皆川淇園など13人の住所が書かれており、応挙だけでなく、彼の弟子たちにも関心が向いていたことを窺わせるが、本稿では源琦と岸駒との交流について見ていく。源琦と植松家との交流は、源琦筆「藩妃之図」(東京国立博物館蔵)に「贈原駅蘭渓植松君」という款記のある作品や寛政8年(1796)〔推定〕に源琦が蘭渓・応令・応英に宛てた書簡が残っている(注18)。本画稿類中には源琦の原画を写した画稿が19点ある。このうち、「芙蓉図」写〔図12〕の左上には、「寛政甲寅春遊于京師、與駒井氏懇、及還郷請其粉本携帰寫」という書付〔図13〕があり、寛政6年(1794)応令(または応英)が京滞在中に源琦のもとを訪れ、彼が所蔵する画稿を写していたことが分かる。次に岸駒と植松家の交流は、寛政6年(1794)に蘭渓がはじめて岸駒を訪れたことに始まる。初対面のとき、岸駒が蘭渓に自らの画風について語った内容が『聞書』に記されている。一、岸雅楽助之画ハ花鳥ハ林良、人物ハ黄筌。山水ハ馬遠、夏珪、王摩詰ヲ学由、雅楽助之咄(雅楽助〔岸駒〕の絵のうち、花鳥図は明代の宮廷画家・林良、人物画は五代蜀の画院画家・黄筌、山水画は南宋院体画の馬遠と夏珪に学んだと話をした。)岸駒(1749もしくは1756~1838)は、応挙没後の京都画壇を牽引していった画家で、はじめて自分のもとを訪れた蘭渓に対して、中国人画家の名前を次々と挙げて自身の画風を説明している。これ以降、お互い意気投合したのであろうか、蘭渓が京を離れるとき「墨梅図」(徳源寺蔵)を餞別として贈り、文化9年(1812)には植松家に滞在している。本画稿にも岸派の作品を写したものが58点確認できる。また、植松家伝来作品にも岸駒、岸岱、岸連山などの作品が多数あり、応挙没後は円山派よりも岸派との交流がより盛んになっていく。5.植松家にとっての画稿の意味植松家伝来の画稿について検討してきたが、本画稿の特色として、1738点という総数に対して、これらの画稿をもとに植松家歴代が描いた作品数があまりにも少ない点が挙げられる。この点について、画技習得のための手本という画稿本来の機能ととも

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