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― 148 ―に、先述の顔輝筆「蝦蟇図」〔図3〕や「龍図屏風」写〔図10〕、「虎図屏風」写〔図11〕のような実際に見た作品を写した画稿も多く含まれており、京の寺院や個人が所蔵する作品を写すという目的もあったと思われる。また、天明6年(1786)、応令が応挙へ弟子入りしたとほぼ同じ時期、蘭渓は自邸の庭に変種の植物を集めた園地造営を企画していた。冒頭にも触れた植松家の園地「帯笑園」は、寛政3年(1791)に海保青陵(1755~1817)によって名付けられた。帯笑園には、蘭渓の書斎「曳尾亭」、花見のための「臨春亭」、富士山を見るための「望嶽亭」などがあり、見学のために多くの文人墨客が訪れた(注19)。これら多くの来客を接待するための部屋の内部を飾っていたのが、大雅、応挙をはじめとする京の絵師たちの絵画であった。蘭渓が息子である応令・応英を応挙へ入門させた理由については確実な史料などは残されていない。ただ、寛政8年(1796)9月、すでに隠居していた蘭渓が応令へ与えた家訓『与右衛門江一札之事』の記述によって、蘭渓の絵画学習を含む技芸についての考えを推測することが出来る(注20)。「今迄覚候技芸精出し可申、併芸は家を治之次、学問芸勝れ致候は、我ニ孝之内、芸は俗ニ云石臼芸は蘭渓は不好、新規之芸は堅ク初メ申間敷」(今までに覚えた技芸にだけ励み、芸はあくまでも家業に次ぐもので、学問を修めることを奨励し、それは我(蘭渓)にとっての親孝行でもある。また、蘭渓は石臼芸〔多くの芸事を習い何1つ修めることができないこと〕を好まないため、新しく技芸を習うことを固く禁じる。)つまり、単なる教養のひとつとして絵を習うのではなく、応挙へ弟子入りさせ、毎年遠く離れた京へ赴き、絵を学ばせたのも、「石臼芸」を好まない蘭渓の意向であったと推測される。また、応令が家業を継いでからは、絵を描くことが植松家当主として許された唯一の技芸であり、この蘭渓の考えは、家訓として季敬、季服にも代々引き継がれたと思われ、先述のとおり、京の絵師たちの密接の関係を継続し、絵の注文も引き続きおこなっている。6.おわりに以上、植松家伝来の画稿の概要と植松家における画稿収集の意味について検討してきた。その結果、応挙へ弟子入りした応令の画稿だけでなく、植松家歴代当主が写し

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