― 155 ―涸渇して居るのですから、將に來可き東洋の復興の礎の下の地固め石の一塊ともなつて倒るゝ事が出來たら實に滿足であると考へます(注2)。[明治38年(1905)](前略)異なつた風潮つまり嘗ては支那なり印度なり其他東邦諸國との日本の接觸が奈良なり平安なり、下つて近く德川の時代に到る迄の間を色々と美しい花を飾らして來たところの我藝術が…(後略)(注3)。[明治38年(1905)]上記の2つの文章では、東洋諸国として中国とインドの名が挙がっており、青木がインドを中国とともに日本と関係の深い国であると認識していたことが推測できる。そして現在は衰退しているものの、古代においては中国と同様にインド文化が優れたものであったと考えていたことが理解できる。また以下の文では、青木の研究の過程が記されているとともに、さまざまなインド哲学の知識を得ることによって、多くの作品が生れたことを青木自身が証言している。アッシリアよりペルシャより、矢張猶太の舊約、印度の吠佗が一番立派でせう。(中略)吠佗ですか、まだ今種々な方面から研究して見て居るので何れ其中に申しませう。私の研究の順序は始は釈迦文敎です、是れは勿論吠佗ではありません。それからアタルヴァに這入つて、リグに入つてヤジュルに入つてサーマに入つて、又アタルヴァに出たのです。其中色々な畫稿が出來たのです。イヤ愉快なのは御存じの通り四部に附いて居るブラフマーナのアーラヌヤカ(深林篇)中のウパニシャットで、印度の舊約聖書と云つていいです。幽玄といひますか、美妙といひますか、實に久遠なものです(注4)。[明治38年(1905)]青木は時に物事を誇大表現するところがあったようであるが(注5)、はじめに述べたように、当時インド文化に関する書物が日本で多く出版されていることから、これらの青木の発言はそれほど大袈裟なものではないと考えられる。例えば1800年代に発行されている仏教学者である土屋詮敎の『印度哲学史』(東京専門学校出版部蔵版)においては、青木が画題に選択したジャイミニが「西暦紀元前八世紀頃に出で、自ら一個の論理的方法を組織して、吠陀の敎權を把持せんが爲に、聲の常住を主張」した人物であることや(注6)、ウパニシャッドに関する詳細な解説などが記されている。次の青木の文章においても、インドと日本の関係について言及されており、青木は、
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