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― 156 ―今後日本でインド文化の研究がさらに盛んなるはずだと述べている上、当時、絵画においてもインド文化の影響があったことを指摘している。また、明治40年(1907)には「サンスクリットを研究して居る、或本屋は今年中に印度に行つて呉れと云つて居る、まだ金が無いから其中にと曰つて居る」(注7)というようなことも述べている。印度に就ては今歐洲では却々大した研究をやつて居る學者が少くない、此の研究にも種々な時代を經過して辭書などいくらも出來て居り、又出來つつある。今に日本にも梵文學の研究が追々盛んになるでせう。また印度の繪畫に研究なども趣味があるでせう(注8)。[明治38年(1905)]さらに、青木とインドの関係は、友人たちの追想からも理解することができる。例えば森田恒友は、「半年以上居たらう、美術学校を出る樣になって、「印度神話」の原稿などは夏に僕の留守中に描いたものだつた。」(注9)と述べている。この発言から青木が「印度神話」について原稿を書いていたことが把握できる。それがどのような内容であったかは定かではないが、青木が原稿を書くことができる程度にインド文化の知識を持っていたことを示唆している。また岩野泡鳴は、青木が駒込追分町で下宿していた時期について「そこには印度人も下宿してゐた。その印度人の話を聽いて、印度へ行つて見たいと云い出した。」(注10)と述べており、青木が一時期インド人と暮らしていたことが明らかとなる。「駒込追分町」での下宿ということは、明治35年(1902)から明治36年(1903)の前半にかけてということであり、ちょうど青木のインド文化に関する作品の制作時期とも重なる。ゆえに青木は、書物を読むだけではなく、インド人から直接インドに関する話を聞き、時には資料や写真を見せてもらいながら、インド文化に関して学んだ可能性が高い。2 《闍威弥尼》と《優婆尼沙土》青木は、明治36年(1903)の白馬会第8回展に数点の神話画稿に関する作品を出品している。現在では、《黄泉比良坂》と《闍威弥尼》しか残っておらず、出品された作品の正確な点数や、作品の題名なども不明であるが、そこには《闍威弥尼》のようなインド文化の影響を受けて描かれたと考えられる作品が数点含まれていたことが明らかとなっている。白馬会に出品された作品以外にも、青木の描いたインド文化に関する作品は残されており、管見の限りでは6点、すなわち《闍威弥尼》(1903)〔図1〕、《優婆尼沙土》

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