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― 7 ―こが日蓮荼毘所である。その荼毘所左側に2基の墓碑が描かれているが、この場所は狩野家墓所にあたる。安永9年当時既に当該地に所在した墓よりこれを比定すると、ひときわ大きい墓が探幽、その向かいにある墓が典信の父古信のものと考えられる〔図14〕。『実記』に「栄川古信まだいとけなかりしを、名家の末なりととて、めしまつはし給ふ事かぎりなし」とあるように、古信は家督を継ぎ36歳で早世するまで、将軍吉宗に重用されたことはよく知られる。古信は吉宗の意向で大名家等が蔵する名画を数多く模写し、日光社参や鷹狩りなどの外出の折にも側にあって地取りを行い、また御用の本画も製作した(注14)。また木挽町家には古信が描き吉宗が修正を加えた鷹の図が数多く伝わっていた(注15)。これを分析した畑麗氏は、古信の写生的要素が強い「図」が、吉宗の修正により伝統的格式を持つ「画」となっていったことを指摘している(注16)。畑氏は『古画備考』の記事などから、吉宗の修正を「御好」を示したものという絵師側に立った評価を示すが、将軍家側の意識として『実記』に「御みつから、養朴以来伝えさせたまひし画法を懇に御教諭」したものとして伝えられていることは重要である。これは吉宗が常信以来の木挽町家を自身との関わりから特別な絵師家として贔屓したと、幕府側が認識していたことを示している。吉宗は、古信没後、その子典信をも気に懸けた。典信幼少の頃、同朋格奥詰の岡本善悦を介して画を吉宗の上覧に供した際、吉宗は「栄川幼しといへども、はや衆人を越たり」と賞した上で、自身が名手と慕う探幽を超えるには探幽が学んだところの古画に学べ、との指示を送っている(『実記』)。「先祖書」によれば、典信は寛保元年(1741)に初めて吉宗に御目見し画巻を献上したという。時に12歳である。『実記』の伝える故事はこの時であろうか。また、「先祖書」や『古画備考』に記されないが、「縁起絵巻」跋には先にふれた通り「とし十七にしてかたしけなくおまへにてかす〳〵の画ともつかうまつる」とあり、典信17歳の寛延元年(1748)に奥御用を勤めたことを推測させる。「先祖書」によると典信が奥御用を仰せ付かるのは宝暦13年(1763)であるため、この記述は未だ在世中の大御所吉宗の御前を指すものかもしれない。典信が奥絵師として力を得た背景に、権勢を誇った田沼意次との関係があったことを述べる書は江戸期より知られる(注17)が、この意次が登用されていく背景として、田沼家が紀州家時代よりの吉宗子飼いであったことを忘れてはならない(注18)。本門寺は狩野家菩提寺であるとともに、紀州徳川家の菩提寺でもある。紀州徳川家に出自した吉宗の恩恵に浴した木挽町家にとって、本門寺は特別の場所であったに違

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