― 166 ―知られる)と、旧毛利家本(元毛利家伝来)の2点を制作している。旧毛利家本のみ烏丸光廣の奥書があり、寛永7(1630)年に本多冨正の所望により禁裏御本を宗達に模写させ、光廣が詞書を書いたものとわかる。(禁裏御本は現存しない)。旧毛利家本は詞書と絵が交互に連なる全4巻で制作されていたが、第4巻以外は分割され分蔵された(注3)。(現在第1、3、4巻は出光美術館蔵、第2巻は文化庁他分蔵)。一方、光琳が模写した宗達本は、詞書と絵が別々の巻立ての詞書3巻、絵3巻で、途中錯簡もあり本来の形態を失っている。光琳本は詞書と絵が交互に連なる全4巻の形態で現存している。明治28(1895)年に関西財界の重鎮で美術品収集家の藤田伝三郎から明治天皇に献上され、御物となった。また、山根有三氏によって各巻末にある「方祝」印と「法橋光琳」の落款の書体が「紅白梅図屏風」(MOA美術館蔵)に近いことから光琳の最晩年作とされ、詞書も光琳筆の可能性が指摘されている(注4)。そして、宗達本と光琳本の詞書は、漢字と仮名の使い分けや改行まで、僅かな例外を除いて一致しているため、宗達本は光琳の制作の段階では、通常の4巻本の形態だったと考えられており、光琳本から宗達本の復元ができるといわれている(注5)。一方、旧毛利家本は用いられる漢字や変体仮名、改行もかなり違う。絵の方も宗達本と旧毛利家本では、一見同じようにみえるが構図やモチーフ、配色、細部の着物の模様等々多くの相違がみられ、その制作についての見解は研究者の間でかなり異なる。2.模写の仕方模写の仕方には、大きく別けて3通りある。第一は、作品を傍らに置き、見て写す臨写(臨模)。第二は、原物の上に紙を敷いてその上からなぞる敷き写し(透き写し、あるいは上げ写し)といわれる方法。第三は、原物の下絵や他の人によって敷き写しされた粉本を使用する方法である。敷き写しの仕方を具体的に把握するために、画材にも造詣が深い日本画家の川嶋渉氏に教えて頂いたところ、光琳本の場合、用いた可能性のある紙は楮、三椏、雁皮の三種類が挙げられ、例えば雁皮紙は箔の間にも挟む薄い紙で、礬砂を引くとさらに透明度が高くなり、下の絵がよく透けて見える。また、滲み止めや顔料を紙に定着させる為に、紙には礬砂を引くので薄い紙でも宗達本を汚すことなく敷き写しができる。よって、宗達本の上に紙を敷いて、その上に墨や顔料を使って敷き写ししながら制作し、それに裏打ちをして仕上げることは可能で、時間も短縮できると伺った。
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