― 181 ―〈1〉 【2】の注文主である越前鯖江藩主間部詮勝が、京都所司代在任中に、仁阿弥に命じてこのような43種の「名(茗)甌」即ち急須を制作させた。〈2〉 〈1〉で仁阿弥が納めた急須を間部が気に入り、その後度々仁阿弥に注文した。〈3〉 間部が仁阿弥を二条城に招聘し、庭でやきものを制作させて見物した。〈4〉 間部が巡視のついでに仁阿弥の自宅を訪れ、休憩がてら作陶を見物した。〈5〉 〈4〉の御礼あるいは日頃の交誼の証として、仁阿弥が間部自筆の書画を拝領した。この記録は、おそらく高橋家に文献や口述で伝わっていた、初代から五代までの歴代に関する事績を編纂したものと推測される。仁阿弥没後50年程経た、五代高橋道八(1869~1914)在世時の明治41年(1908)に編纂・書写された記録である点や、自家の事績を多少誇張して述べた可能性がある点などを考慮すべきであるが、【2】の箱蓋裏に記されたような間部との交流が確認でき、かつ急須43種のうち15種が存在していることから、「系統録」に記された事績を黙殺することはできない。なお、現在確認できた15種のうち9種は、通常箱の材が桐であるところ、木目が美しい杉材の共箱に1種ずつ納まったうえで、内部が9升に仕切られた外箱に納められている。またそのうちの6種の箱蓋裏には、「以洛東稲荷山之土造」〔表2No.7〕のように、京都伏見の稲荷山の土を用いた旨が墨書されている。箱の仕様が9点とも近似していることから、1点ずつ集めて後々9点組に仕立てたのではなく、当初から組になっていた可能性が高いと推測される。この9種以外には、桐箱に納まるもの〔表2No.4・5・13・14〕があり、また「覆草子」〔表2No.5〕は2例確認できることから、間部から発注された1組だけが特注制作されたのではなく、数種を組にし、あるいは1種ずつ単品にするなど、制作点数や販売方法は様々であったと考えられる。江戸時代の大名の嗜みとしては、従来能や抹茶が注目されていた。しかし近年、近江彦根藩14代藩主井伊直亮(1794~1850)と、15代藩主直弼(1815~60)の兄弟は、煎茶に造詣が深かったことが指摘されている(注15)。奇しくも間部と井伊兄弟は同時代を生き、井伊兄弟は幕府の大老職に就き、間部は京都所司代と老中を歴任し、直弼と間部は安政の大獄で攘夷派の弾圧に奔走した。大名であり幕府の高級官僚でもあった彼らが煎茶を嗜んでいたことは、今後陶磁史や茶道史を考察するうえで重要な視点となるだろう。これまでに仁阿弥作品の需要者としては、建仁寺両足院住職の嗣堂東緝(注16)、長野県須坂市の豪商田中本家(注17)などが明らかにされている。実は「系統録」には、間部に続いて他の大名や貴顕との交流も記述されている。「大岡紀伊守様二條城
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