― 182 ―主の中御注文調進御染筆拝領す」と記されるのは、三河西大平藩主大岡忠愛(1807~57)と推測される。二条城主(城番)となった経歴は確認できないが、天保2年(1831)に大坂加番、同14年に大坂在番を歴任した。また、「天保年間信州内藤豊後守様二條城主以来賞に入り。伏見奉行の時に御用調進御染筆外種々恩賜探幽筆龍虎三幅対拝領す」という記述に該当するのは、信濃岩村田藩主内藤正縄(1795~1860)である。内藤は文政13年(1830)に二条城番を務め、天保9年(1838)から安政6年(1859)までの長きにわたり伏見奉行を務めた。任官の記述に若干の齟齬はあるものの、仁阿弥の活動期と彼らの畿内における任期は重なっており、幕府の行政官として畿内に赴任した大名たちが、仁阿弥の重要な顧客であった可能性は極めて高い。仁阿弥の煎茶器とその名声は、実際に諸国へ広がっていったようだ。「南蛮手急須」(入間市博物館蔵)(注18)を納める共箱の身側面には、「天保九年冬の日吉田/東堂子の京みやけに/もらふ事賞玩乃余りに/煎し茶の品定/して/ふゆこもり 談斎(花押)」という由来と俳句が墨書されている。間部や内藤が京都の行政官在職時に仁阿弥と交流していたまさにその頃、仁阿弥の急須が京土産として重宝されていたのである。4.おわりに版本および写本を利用して制作された仁阿弥の煎茶器について、その利用方法を分析し具体的に紹介した。仁阿弥にとって、様々な図様や形状の煎茶器を次々と世に送り出すために、版本や写本は重要なデザインソースとして不可欠だったのである。実は、このような陶磁器の制作方法には先例が存在する。江戸前期の京焼陶工で、その後の京焼ブランドを決定付けた存在である陶工野々村仁清(生没年不詳、17世紀後半に活動)の御室窯は、失われて実態が分からなくなっていた足利将軍家旧蔵の様々な形の茶入を、座敷飾りや道具鑑定のテキストである『君台観左右帳記』の写本に掲載された図に基づいて制作し、それらを19、18、8などの複数点組や、1点ずつ単品で流通させていたのである(注19)。仁阿弥や周平は、『方氏墨譜』から図様を巧みに利用して、中国趣味に溢れる日本製煎茶器を新たに創出した。また、写本にごく簡略に図示された実在しない急須を、まるで手品師のように注文主の眼前に登場させたのである。彼ら京焼陶工に求められたのは、そうした顧客の様々なニーズに応えて茶器を作り出すことのできる、確かな技術力だったのである。従来仁阿弥については、仁清・乾山に追随した華やかな抹茶器と、寿老人像などの彫塑作品を得意とした陶工として語られることが多く、煎茶器の紹介や言及は抹茶器
元のページ ../index.html#192