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― 189 ―三男として生まれ、本名を三之助という。父の伍兵衛は、家業を営む一方、茶道や華道、俳諧など文化的教養を身につけ、古美術にも見識があって画家や文化人たちと交流した。そのような環境で生育した印象は、芸術に親しみ、次第に創作への関心を抱くようになった。印象の兄、寒星(演劇研究家)と漆軒(漆芸家)も芸術にたずさわった。幼少期から絵を描くことが好きだったことに加えて、印象は図画の教師や校長から推薦されて明治39年(1906)に京都市立美術工芸学校図案科に進学した。しかし、美術工芸学校を卒業する頃、家業が倒産し、まもなく父が他界すると、印象は家計を支えるため、龍村平蔵の工房に勤めて帯や着物の図案を描いた。当時、染織図案に従事する画家や画家の卵は多かったが、なかでも印象の活躍は目覚ましく、数々の人気図案を生み出し、龍村の事業を盛況に導いた(注2)。しかし印象は、日本画家として踏み出したいという思いを抱き始め、普遍的な美を表現する絵画世界で生きる自己を探求した。平蔵の援助もあって大正7年(1918)に京都市立絵画専門学校に入学し、その翌年、第1回帝展に初出品した《深草》が見事初入選となった。在学中に帝展に入選した印象は、学校の指導者として尊敬していた西山翠嶂に師事し、画道を極めるため翠嶂の画塾・青甲社に入門した。21年、絵画専門学校卒業の年に《調鞠図》が第3回帝展で特選を受賞、25年には第6回帝展で《華厳》により帝国美術院賞を受賞した。その後も帝展に毎年出品し、各地の寺社仏閣の障壁画も多数描いて日本画家としての地位を築いた。戦後、印象は独自の色彩やモチーフ、デフォルメ表現を用いた作品を次々と描いて日本画壇に大きな刺激を与えた。彼はまた1950年代半ば以降、日本画における抽象表現を開拓して多くの国際展にも出品し、昭和36年(1961)には文化勲章を受章した。1966年には自作を展示する美術館を彼自らのデザインで設立した。印象は絵画作品のみならず、工芸や空間デザインを独自の発想で実現させ、同時代の日本画家たちとは一線を画す存在であった。東丘社の起源は、堂本印象が絵画専門学校で帝展への出品作を制作していた大正10年(1921)、隣接していた美術工芸学校に通っていた三輪晁勢が制作中の印象の作品《柘榴》を見て弟子入りを決意したことに始まる(注3)。印象が画塾として創立したのは、その後の昭和9年(1934)であった。教養深く確かな画技を備えた印象のもとには多くの門人が集い、印象は自身の画塾を率いる傍ら、昭和33年(1958)に師西山翠嶂が亡くなるまで青甲社の展覧会にも出品を続けた(注4)。

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