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― 191 ―鑑賞、研究、販売も行う場であった。東丘社展は、昭和14年(1939)に大阪進出で大反響をよび、更に翌年には神戸でも開催した(注7)。大阪、神戸と発表の場を拡大して大々的な東丘社展の開催と同時に、如月会展のように軸物や小品を展示販売する催しが大阪では春耀会展、神戸では緑牕会小品展が開催された。小品展覧会では塾員たちの力作が並び、好評価を得たようである。これらを企画した印象の試みには、絵の勉強をしながら購買者とも接することで、多くの京都画壇の画家たちのなかでも、若い塾員たちにひときわ高い意識を持たせようとしていた意図が感じられる。全ての展覧会は、塾員の運営で行われていた。「昭和14年度 第6回如月会日誌」には、塾員による運営内容が明記されている。まず、開催日程および出品メンバーは印象の独断で発表され、その2週間後に印象に出品画の草稿を見せる下見会が行われた。それと同時に、図録制作の役員も決められていた。更に印象に本紙を見せる頃になると、会場との交渉を開始し、案内状の発送、各新聞社や関係者への挨拶をすませ、展示作業を行なって開会を迎える。閉会後には慰労会を行ない、会計整理をして各種支払いを終えると、印象に御礼をして一連の作業が終わるという流れである。塾員は制作、出品だけでなく、それぞれの役割を分担しながら塾展を組織的に営んでいた様子が目に浮かぶ。②戦前(1941-42)昭和16年(1941)に大阪で第2回春耀会と第3回若葉会展、京都で第7回如月会展が開催された。これらの小品展覧会に加えて、第4回東丘社展では特別な催しが行われた。「本年は画塾初めての共同制作の現代的試みとして塾員全部を3名あるいは5名に各組織し、作品を一個人のものとせず、共同制作によって従来の因循姑息を排し、作家の視野を広げ、いくつかの個性を持ち集めて相互いに練磨し合うために没我協力の精神と正しき美の創造に理念を置き、この共同制作の途を選ぶ。この試みこそ、この意図こそ甚だ重要な現代的意義を持つものであることと信ずる。」(注8)全ての塾員を18組に分け、18作の共同壁画制作展を大阪大丸、神戸大丸、京都美術館で発表したのである。これに対して、内閣情報局により全作品がそれぞれ献納された(注9)。また、献納に先立ち、東京上野美術館での情報局主催で内示展を催し、東京でも絶賛されたという。画塾内で編成されたチームで多数の作品を共同制作したことは、日本画壇における初の試みであった。塾展をはじめ各種展覧会が開催中止という戦時中の状況下で、京都ひいては日本画

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