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― 192 ―壇で社会の時流に適応する活動をした画塾は、印象の師西山翠嶂の青甲社と東丘社だけであった。青甲社は、産業戦士激励展を開催し、現場で揮毫も行なった。同様に、東丘社は厳しい戦局時、元寇絵巻展や楠公七生報国絵巻展を開催して国民の士気高揚に効を奏した。これら二つの塾展のような催しは、活力ある様子が報じられた(注10)。昭和17年(1942)、印象の引率で東丘社から数人の塾員による紀伊白浜陸軍病院療養所慰問と画揮毫が行われた(注11)〔図6〕。この時、印象は同病院に自らの作品を献納した。このことが後に、東丘社が戦争画を積極的に描いた画塾というイメージを強める結果をもたらすが、実際には塾員の中からも多くの出兵者がいて、彼らを戦場へ送り出すときの印象は大変心を痛めたという。そのため、塾員を送るのではなく、画家は絵画作品によって国民の役割を担うべきとする印象の思惑があったようである。各々の画塾における画家たち自らも絵画作品によって戦時の国民の心の糧となるよう、努力し渾身の作品を数多く制作した。京都ひいては日本画壇のなかでも極めて大規模な2つの画塾の取り組みは、画家のこの時代の社会との協調を反映していると言える。③戦後から現在まで(1943-70年代)昭和18年(1943)から昭和22年(1947)までの戦時中、展覧会活動は休止し、昭和23年(1948)に第6回東丘社展によって再開され、第50回展まで京都大丸で開催された。戦後は、従来開催していた小品展覧会がなくなり、東丘社展の活動に一本化されていく。常に新たな表現を試みていた印象は、テーマ設定して東丘社の塾員たちに制作させた。昭和29年(1954)の第11回展では「裸婦」が、翌55年の第12回展では「抽象」がテーマに設定され、塾員たちはそれに応じた作品を制作することが求められた。印象は、昭和27年(1952)のヨーロッパ美術視察の遊学経験の後、徐々に抽象表現を追求し始めたため、そのような内容のテーマが出されたのである。印象がテーマを設定したのはこの2回だけで、塾員にとって、出されたテーマを自身で考えて表現を創り出す機会となった。このように塾展でテーマ設定がなされた例は稀で、他の塾展ではほとんど見られない。戦後の東丘社は、運営についても独自の方法を展開した。一般に画塾の運営は、主として各塾員から徴収される会費で賄われていたが、画塾による特別の展覧会や後援会での展示作品の販売が大きな資金となった。例えば、青甲社は塾員が各々の作品を持ち寄って展覧会を開催して販売会を催し、晨鳥社は知名度の高い画家たちによって

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