― 193 ―美術画廊で展示販売をしていた(注12)。なかでも、東丘社の後援会は、抽選くじを引いて作品が当たる景品制という特徴的な方法をとっていた。後援会に出品する作品は、印象が20点から30点ほど描き、残りを塾員各々が3、4点ずつ出品した。各々の作品には番号が付けられ、会員制の来客にはクジを引いてもらい、当たった番号の作品を持ち帰ってもらうというものであった。抽選形式により、来客にはどの作品が当たるか分からないが、必ず1点は持ち帰れるように配慮された。塾展としての東丘社展以外に、このような後援会は年に一度開催された。当時の画家は比較的貧しく、制作だけで生活できる画家は限られていた。青甲社も寺院の場を借り、後援会を行なっていたが、東丘社は画商を含めて集まった会員の来客は500人に達したため、京都美術倶楽部や歌舞練場で開催された一大イベントとなっていた(注13)。このような催しによって、塾員は大作の発表とは異なる画家としての素養を磨く機会が与えられた。後援会は、若い塾員たちの生活を支えるだけでなく、制作の活力にもなったと思われる。この後援会の記録は、早い時期で昭和38年(1963)から見られるが、塾員たちは次第に作品の制作に追われて絵の勉強ができなくなるという理由で、1970年前半で打ち切られた(注14)。後援会に参加する来客の会費は、1960年代後半で5万円程だったという。集まった資金は塾員たちに還元され、また次の展覧会開催やスケッチ旅行の費用となった。東丘社の後援会は、作品制作で集まった資金を更なる制作へ繋ぐ循環的運用に長けていたが、その気質は今も受け継がれていると考えられる。3 京都における画塾の役割近代以降の京都では、多くの画塾がひしめき合うように存在したが、師の没後に解散、消滅した。しかし、今でも毎年塾展を開いて活動し続けている主な画塾は東丘社の他に晨鳥社、青塔社に限られる。ここでは、現在も画塾に所属し活躍する日本画家にそれぞれ聞き取りを行ったことから、京都における画塾の意義を探りたい。なお、聞き取りを行なった日本画家は、由里本出氏(東丘社)、渡辺信喜氏(晨鳥社)、岡村倫行氏(青塔社)の3名である(注15)。ⅰ)画家を志した際、画塾に入った契機出身校の金沢美術工芸大学元教師、下村正一氏の紹介(由里本氏)出身校の京都市立日吉ヶ丘高等学校元教師、天野大虹氏の紹介(渡辺氏)出身校の京都市立日吉ヶ丘高等学校元教師、勝田哲氏の紹介(岡村氏)ⅱ)入塾年と入塾当時の塾員数
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