― 232 ―の戦いであり、セルジュク朝に大敗したビザンティン帝国は以降アナトリア半島での影響力を失い、カッパドキアの修道文化も急速に衰退したと言われる。しかしその影響が具体的にどれほどのものであったのかは史料の語るところ少なく、未だ議論もある。カッパドキアの「聖母の眠り」図を概観すると、大きく2つの意義があると考えられる。一つには他地域に遺らない9~10世紀の作例から、イコノクラスム以前に遡る図像の様相を探ることが期待できる。そして13世紀に至る作例は、「眠り」図が他地域(さらに言うなら中央)で起こった図像の変遷が見られないことを示す。これは、カッパドキアが他地域の情報伝播を受けていなかったことを示唆し、すなわちマラズギルト以降、カッパドキアがビザンティン本国から孤立した状況にあったことが分かるのである。結カッパドキアの聖堂壁画は、中央で聖堂装飾プログラムの変遷とそれに伴う図像の構図、意味の変化の影響を受けず、地域に遺る過去の作例を参照しながら、細々と描き続けられていたのだろう。おそらく他の主題でも起こったことであろう以上の事実が、「眠り」図像においては現存作からはっきりと読み取ることができる。以上、カッパドキアの「聖母の眠り」図像に関する考察を述べた。一図像の通時的考察が、地域の歴史状況の証人となり得る点を示すことが出来たと考える。なお今回行ったフィールドワークでは、未報告の岩窟小聖堂を複数発見することが出来た(注24)。カッパドキアの岩壁に無数に穿たれた聖堂には、まだ壁画の遺る未発見の聖堂があることが期待される。今後の調査により、それらの発見と、「眠り」図像の更なる作例を収集することに努めたい。注⑴「聖母の眠り」の伝承の展開や神学的研究は以下を参照。M.Jugie, La mort et lʼassomption de lasainte Vierge: Étude historicodoctrinale, ST 114, Vatican, 1944;《Koimesis》, RBK, Band.IV, 1992,cols.136-182; S.Shoemaker, Ancient Traditions of the Virgin Maryʼs Dormition and Assumption, NewYork, 2002.⑵以下の文献に二十数点の作例が挙げられる。A. Goldschmidt, K. Weitzmann, Die byzantinischenElfenbeinskulpturen, Band 2, Berlin, 1979.⑶A.W. Epstein, Tokalı Kilise: Tenth-Century Metropolitan Art in Byzantine Cappadocia, Washington,D.C., 1986, pp. 29-32.⑷H.Maguire, Art and Eloquence in Byzantium, Princeton, 1981, pp. 59-61.⑸N. Thierry, “De la Datation des Eglises de Cappadoce”, Byzantinische Zeitschrift 88.2 (1995), p. 433.
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