― 238 ―官は、明治10年(1877)より5年計画で着手すること、建築師雇傭や絵図面仕様などについては調査の上伺い出ることを指令している。この太政官達にもとづいて、工部省は全国に材料の調査に赴くなど、着々と準備をすすめていた。ところが西南戦争が勃発するなど、国内は多難な時局にあり造営は延期となる。政情不安が一掃された明治12年(1879)になって、再び皇居造営の気運が高まった。しかし今度は、建設地や構造、様式などをめぐって、計画が何度も大幅な変更を加えられることになる。紆余曲折を経て、明治16年(1883)に西の丸と山里地区に木造和風の「仮皇居」と煉瓦造宮内省庁舎を建設することとし、将来本丸地区に永久的な洋風の宮殿を建設することに決定した。明治17年(1884)からの全工事は、①奥宮殿(奥向御殿)、②表宮殿、③煉瓦造宮内省庁舎、④土木工事の4区に分けて進められた。①を木子清敬、②を木子清敬、樋口正峻、中村茂雄、③を新家孝正、河合浩蔵、中村達太郎、高山幸治郎、④久米民之助が橋梁ともに工事を担当した(注3)。このようにして、明治宮殿は「仮皇居」として明治21年(1888)に竣工〔図1〕。その後、本丸地区に永久的洋風宮殿が建てられることはなかった。竣工の翌年、明治22年(1889)1月に天皇・皇后は、赤坂仮皇居から明治宮殿へと居を移した。その翌月には、大日本帝国憲法発布式が表宮殿の正殿において行われている。それを皮切りに、国家・皇室の諸行事や皇室の生活に使用されてきた。2、明治宮殿の室内装飾と織物前述したように、明治宮殿は外観こそ和風意匠であるが、表宮殿の室内は長押がめぐり、欄間が取り付けられる一方で、折上格天井にシャンデリア、石造のマントルピースを備えた暖炉が設置され、生活様式も椅子座という和洋折衷様式であった。この室内装飾の基本的な構成は、農商務権大書記官山高信離に委嘱された(注4)。辰野金吾は、明治宮殿建設の初期、装飾取調の任を負ったが、日本銀行の建築に関わることになったため、実際には携わることはなかった。その代わりに片山東熊が関与することとなり、ドイツに派遣され、家具やその他装飾物類の監督をしている(注5)。そして、室内装飾織物は農商務省4等技師荒川新一郎へ委嘱された(注6)。室内の壁面を織物で飾るということは、西洋由来の方法である。しかし、実際に製作を行ったのは、京都西陣を中心とする業者。その一人、二代川島甚兵衛の伝記には、採用の経緯を次のように記している。御造営局は、当初室内装飾用に西洋の織物を採用しようとしたが、それを耳にした川島が西陣の伝統的な技術を応用して製作するともっといいものができるし、日本の織物の技術の高さを内外にアピールできる、さら
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