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― 15 ―この時期の作例で合口式①の形式を取り、基準作例となるのが春日大社の「菊造腰刀」〔図4−2〕である。刀身に「備州長船住元重 貞和三年三月日」と、さらに棟に「上」と銘があることから(注11)、刀装は貞和3年(1347)以降に制作され、ある時期に奉納されたことが明確であり、その制作は南北朝時代とされている(注12)。上鎺は金属製で、この類例として「柏木菟腰刀」(重要文化財、南北朝時代・14世紀、春日大社)、「牡丹造梅花皮鮫鞘腰刀」(重要文化財、同、京都国立博物館)〔図4−3〕があり、上鎺を木製にしたものとして「梅花皮鮫鞘腰刀」(重要美術品、同、春日大社)、「沈香柄木地黒漆腰刀」(同)がある。これらは、柄頭の張った形状、梅花皮(鮫皮)を用いた装飾など共通点が多く、先学の理解の通り概ね同時期に制作されたと思われる。従って、合口式①は南北朝時代にはある程度普及していたことが推定されるが、この時期の腰刀は、刀身の寸法と重量が多彩であるように、固定形式の変化には新旧形式の併存状況や変則形式も想定すべきである。例えば、全面に文様をあらわした濃密な装飾性をみせる阿蘇神社の「牡丹造腰刀」(重要文化財、南北朝時代・14世紀、現所在不明)〔図4−4〕は鎌倉時代からある呑口式の固定形式をとり、「菊造腰刀」(南北朝時代・14世紀、東京国立博物館)〔図4−5〕や「牡丹造腰刀」(同)は、呑口式に見えるが柄と鞘口に段差を設けて相互をかみ合わせて固定しており、これは呑口式と合口式の折衷形式と言える。また、この期の腰刀にみられる強い装飾性は史料上にも散見され、小笠原氏は、建武元年(1334)に掲げられた「二条河原の落書」から、当時大振りで派手な刀装が流行していたことや、貞治6年(1367)と応安2年(1369)の二度にわたって鮫皮で包んだ刀装が身分に応じて使用が制限されていた例を指摘されている(注13)。さらに、康応元年(1389)における足利義満の嚴島神社参詣を記した紀行文『鹿苑院殿嚴島詣記』では、筆者の今川了俊が義満一行の金の刀装など華美で異風な装いに対して「傍の人は、謗り侍りけめども、かようの事は、あながちに法も式も定まらず、ただ時代に随ふ事ぞかし。(中略)謗りはかへりて道狭きなるべし。」と記しており、華美な装いが許容されていた気風があったこともうかがい知れる。こうした傾向は笄や小柄にも変化を及ぼし、笄は金属製で文様を施したものが多くなり、大型品もみられるようになる。例えば、京都・地蔵山遺跡(14世紀)(注14)、高知・坂本遺跡(15世紀前期〜中期)(注15)の銅製笄は、耳掻がなく、中央に溝があって両脇に文様を施し、東京国立博物館の牡丹造腰刀の銀製笄は耳掻と溝がなく、額を設けて魚々子地に牡丹文を高肉彫とする。さらに、京都・平安京左京八条二坊

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