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― 242 ―指摘できる。この連続する4画面のうちから②と④が選ばれ、明治宮殿東溜之間の壁面に掛けられた。なぜこの2面なのか、またそこに飾られた意味などは現在も調査中で、いまだ明確な結論を下せない状態である。今後も継続して調査を続けたい。ただ、厳密に意味を与えることよりも、吉祥的で、華やかな印象を描く、ということがここではおそらく重要であったのだろうと考える。そのことは、次に述べる《富士巻狩之図》との比較によって、明らかにする。3.2 今尾景年下絵《富士巻狩之図》綴錦について今尾景年下絵《富士巻狩之図》〔図8〕は、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』にも記載された、源頼朝による大規模な狩を描いている。その際、曽我兄弟が敵である工藤祐実を討ち果たした話がよく知られている。この出来事は、当時の人々の語り草となったようで、そのような伝承が鎌倉後期から室町初期にかけての成立と推定される軍記物風英雄伝記物語『曽我物語』を誕生させた。能や歌舞伎などの芸能の分野においても、曽我兄弟を題材とした「曽我物」の作品が次々と作り出された。その成功から浮世絵に多く表されたが、ほとんどが頼朝による巻狩の様子ではなく、曽我兄弟による敵討ちを描いている。桃山江戸期の金碧屏風〔図11〕において、富士の巻狩を描いた作品は、右隻に巻狩を、左隻に敵討ちを描くのが通例であった。右隻の巻狩図には赤い笠を差しかけられ巻狩を眺める頼朝、その側には従者である、長い刀を小脇に抱えた御所五郎丸。また狩の最中に、巨大な猪が頼朝の方へ駆けてきて、それを仁田四郎忠常が後ろ向きに飛び乗り腰の刀でしとめた武勇伝などを描き、左隻には曽我兄弟の敵討ちを時間の推移とともに描いている。それでは、西溜の間に飾られた《富士巻狩之図》はどうだろうか。両隻ともに富士巻狩の様子を描き、前近代の同主題の作品とは一線を画する。また、頼朝であることを誇示するような笠をさしかけるような表現もない。獲物である鹿や猪を狩る群像表現と背景の雄大な富士が目を引く作品となっている。また、この作品には色彩の濃淡による遠近法が用いられている。このような技法は、下絵を描いた今尾景年の画業において類を見ない。おそらく西洋絵画を参考にしたことが推測される。その少し前、明治20年(1887)7月に、洋画家の松岡壽は宮内省より明治宮殿装飾参考にヴェルサイユ宮殿にあるオラース・ヴェルネ作《イスリーの勝利》〔図12〕の模写を命じられている(注14)。《イスリーの勝利》と《富士巻狩之図》

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